mixiユーザー(id:13668040)

2017年01月27日13:46

302 view

『MARCHING−明日へ−』(中田新一)/『母よ、』(ナンニ・モレッティ)

中田監督の作品を昨年から見ている。この監督の作品には決してぶれない人に対する思いやりがあるように思う。そう簡単に言っては身もふたもないわけだが、ただそのような思いやりを描くのにはどうしても登場人物の葛藤や苦悩を描かなければならない。また他者がどうやっても埋められないものがあることも示さなければ嘘に見える。自分で乗り越える力を持つことや自分で気づかなければいけないことが世の中にはあるのだと映画が告げるように思う。

冒頭横浜の街路をマーチングバンドが演奏して進む様子がドキュメンタリータッチで描かれる。大会を兼ねた行進を描く場面で新鮮な映像だと思った。ドキュメンタリーなのかと思ったが、徐々にそこからフィクションの世界に入っていく。若者は皆新人で、脇を西郷輝彦や香川美子、不破万作、伊藤かずえなどが固める。映画は新人が迷いながらも話の中心を一生懸命にやることで新鮮さが出てくる、真に迫るリアリティが出てくる。そして脇をベテランがやることで中心が引き立つような構造になっている。中田監督はこれまでこのような配役の仕方で、松山ケンイチ、堀北真希(『ウィニングパス』)、木村文乃(『風のダドゥ』)、など新人を中心において発掘し鍛え育ててきた。

また助監督時代に多くの有名監督につき監督たちの映画つくりを学んだエキスを自らの映画作りに生かしているように思う。

さて、この映画はマーチングが優勝を目指し、そのメンバーに福島を思わせる被災地から横浜に引っ越してきた(避難してきた)若者が数名がいて、心を病んでいるために音が取り戻せない問題を抱えている。そこでの葛藤を描いている映画だ。また福島にはまだ残って復興を目指している漁師仲間もいるし、兄弟もいるというわけで、その苦しみが映画には最後までにじんでいる。

この映画はラストが大変見どころだと私は思ったが、見る機会があればぜひ見ていただきたい。そこに作り手の倫理やスタンスが見えてくる。また先日南日本新聞「南点」に書いた「『震災詩』とモンタージュ」とも通じるところがあるのではないかと私はひとり勝手に思っている次第である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨年読売新聞の映画ベストを選ぶ欄に『デストラクション・ベイビーズ』とともに挙げられていたのがモレッティの『母よ、』だった。両方を挙げている批評家の評価基準が私にはわからない。どちらかと取るなら、どちらかは捨てるのでなければいけないのではないかと思ってしまうが、そういう考えはどうだろうか。

私は『デストラクション・ベイビーズ』を思い切って捨てて『母よ、』を取る批評をするだろうと思う。そうしないと私の批評の足場がなくなってしまうと思うからだ。なんでもそれなりにいいというのは簡単だ。覚悟がいらない。つまりポストモダンを地で生きているというだけのことだから、消費者の代表者というくらいの意味でならそれでいいと思う。しかし、新聞や雑誌に批評を書いてと頼まれれるなら、それはそれなりの責任をもってやらないといけないのではないかと思う。

あれもこれもではダメで、あれかこれかというのも単純すぎる、よってあれこれ論じたうえで切るものは切るという姿勢は重要ではないかと思う。どんなに世間を騒がせようと無視するというのも手ではある。それも一種の無手勝流の批評行為だろうと思う。事実、「君の名は。」について何とも言わない有名な映画批評家はたくさんいるだろう。

さてこの映画は女性映画監督が主人公で映画撮影と同時に、ラテン語をかつて教えていた母親の入院の見舞いをしなければならない。元夫には娘もいる、今の恋人もいるが別れたばかりだ。兄も仕事を休職して母親に付き添う。自分はその間を行ったり来たりしながら、回想し母親のことをあまり知らなかったと愕然とする。

映画の撮影は、イタリアの社会問題で労働問題だ。アメリカ人俳優を起用し、セリフをうまく言えないで悩んでいることと母親がラテン語を孫娘に教えることとがなぜがシンクロするおもしろい作りになっていて、この女性監督が母親の死をどのように迎えていったのかを観客も一緒に追体験するような映画になっていると思った。

仕事と介護の間を描いた静かな映画としては傑作だと思う。あまり多くを語ろうとして力んでいない点もすばらしい。何回か年をおいて見直せるよさがこの映画にはあると思った。

別にあえてここで書かなくてもいいことだが、私が擁護するのは『MARCHING−明日へ−』(中田新一)や『母よ、』(ナンニ・モレッティ)のようjな映画なのだと思う。
7 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する