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2017年01月27日12:40

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『デストラクション・ベイビーズ』(真利子哲也)・・・愛のない世界を生きる若者の暴力の行方

即物的な暴力がどこからくるのか?そう考えざるをえないような作りで、18歳になって家を出て街で手当たり次第に見かけた人に殴りかかる。相手が何人だろうと殴り倒される覚悟で向かっていく。まるで相撲や格闘技の出げいこや乱取りを見ているような気持になる。通り魔と世間で呼ばれるのはこういった現象を客観的にいうときの言葉だ。この手当たり次第の暴力の根底には何があるのか?

そういった疑問が立ち上がってくる。その主人公を私の期待する俳優(柳楽優弥)がやっている。好演しているといっていい。セリフはほとどんどない。貌の演技とあとはファイターぶり、倒れ方や貌の崩れ方などで見せる演技だ。彼がこの映画の主人公である必然性は『誰も知らない』の親に捨てられた子どものひとりだったことにもあるだろう。この映画の主人公も弟とともに親に捨てられ、町工場のおやじ(でんでん)に拾われて育てられた経歴をもつ。そのでんでんも『冷たい熱帯魚』で人殺しを何とも思わない暴力的なおやじを演じていた。そしてこの映画でもすぐに彼らに殴りかかる。

『デストラクション・ベービーズ』という映画は、『誰も知らない』(是枝和裕)と『冷たい熱帯魚』(園子温)から生まれたといっていい。また海外の映画ならデヴィッド・フィンチャーの『ファイトクラブ』だろうか。
フォトフォト
フォト

松山の漁港近くのロケーションはとてもよい。祭りを最後に絡めるのもいいだろう。しかしこの即物的な暴力を延々と描く映画を見る側がどう迎えるのかという問題はやはり考えなければいけない。なぜこれを撮ったのか、そしてこれを見せようと思ったのか、それは考えざるをえない。倫理的な問題もあるだろうし、作り手の見ているものがもうひとつ見えない。それは『冷たい熱帯魚』についても私は言えると思う。エンタメとして見せようとしているのだろうが、これを見せてどうするつもりかと思うわけだ。だが『誰も知らない』はむごい現実を描きつつも映像には悲しみが漂うように作られている。そういった微妙な違いがある。この微妙な違いが実は映画人としての資質を表しているのではないかと思うが、どうだろうか。
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