「女性なら社会問題になる事案」 “男性保育士に女児の着替えをさせない”は差別か、千葉市長が問題提起し議論広がる
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=4399724
当該記事を読む限り、千葉市長は「平均的平等」を前提にしていると思われる。
しかし、千葉市長に反対する者は「配分的平等」を前提にしていると思われる。
実は一言「平等」と言っても先述したように平等は2種類に分けられる。
平均的平等とはその名のとおり「平らに均した平等」であり、換言すれば「皆同じ」ということだ。
従って、「男性(女性)だから○○はいい(ダメ)」と言うこと自体が「あってはならないこと」である。
これは、一般的に「平等」と言われれば皆がよく思いつくことであり、身近な例でいえば「消費税」等が挙げられる(誰が何を買っても税率は変わらない)。
一方で「配分的平等」とは「特徴に応じて変化や区別をつけた平等」である。
従って、「男性(女性)だから○○はいい(ダメ)」と言うこと自体が「あってはならないこと」ではない。
これは、一般的にはすぐに思いつかないが、例えば「所得税」を例に挙げれば分かりやすい。
我が国の所得税は累進課税制度を採用している。
この制度は高所得者ほど高税率であるという制度である、つまりいくら稼いでも一律何%ではないということであるから、一見すると平等に思えないかもしれないが、「たくさん稼いでいる者からはより多く徴収し、わずかしか稼げない者からはなるべく徴収しないようにしよう」という意味においては確かに平等である。
さて、これらのことを踏まえたうえで、当該記事をもう一度読んでみると、私は千葉市長の意見に賛成だ。
つまり、「平均的平等」を前提とするということだ。
昨今「男女平等」や「夫婦平等」、「公平・公正」等の用語は全て「平均的平等」を指していると思われる。
というよりは、多数の者がそう思っているのではないかといった方がより正確だろうか。
そうだとすれば、「平均的平等」を前提にしていると思われる千葉市市長の主張には合理性と社会通念上の相当性を感じる。
一方で、「子どもの羞恥心に対する配慮であり、女児の親御さんが望むのは当然のこと」「性犯罪の加害者の九割が男性って事を考えたら、十分考慮する理由になる」等の反対意見を主張する者は、その考え方自体は決して間違っていないと思うし、人間らしい感情であると思うが、一方で「では子どもが羞恥心を感じないと言えばいいのか」や「性犯罪者の9割が男性であることが事実だと仮定しても、それを以って全ての男性を女児から遠ざけることが果たして正しいのか」、「保育士と子どもを必ず同姓にすることで、そもそも保育における需要と供給のバランスそのものが崩れないか」という反論に答えられるまたは想定している、また配分的平等が主張の根幹ならば理解できるが、そうでないのであれば、いささか説得力に欠ける気がする。
とはいえ、当該テーマは最終的に「公共の福祉vs個人の利益」という構図にはなるから、結果的にどちらが妥当であるかは双方の根拠次第であると思う。
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