できれば被爆建物で作中ですずさんがスケッチしている福屋百貨店内の八丁座で見たかったのだけど、その近くのサロンシネマで見られただけでも重畳。
子供の頃のすずさんが暮らす広島の街、川の流れや橋の一つ一つ、今も健在の被爆建物などを目印に脳内で現在の街並みと重ね合わせ、ありし日の情景に思いをいたす。
すずさんの実家がある江波の風景、私が小さい頃に観たことがある風景が再現されていることに感慨深し(実際にはそれよりも前の時代の話だけど)。
江波に関していえば、原爆での建物倒壊の影響よりも、戦後、特にここ40年くらいでの開発の影響によって失われた情景の方が多いだろう。
砂糖をめぐる攻防とその顛末、間諜疑惑騒動、機銃掃射がきっかけの義父の転倒と、その場では笑い話となりそうな挿話の一つ一つが日常を侵食する影となっていく。戦時下とは日常の喪失ではなく日常の変容なのだ。
ところでこの映画について、悲惨さが足りない、反省が足りない、原作の思想性が抜け落ちている、といった批判があったのだが、そういう人は、
すずさんからさらに何を奪い、何を思い知らせたら気がすむんだろうか。
こうの史代先生の原作の台詞や独白の省略にしても、片淵須直監督は、文字から音声に置き換えた場合にメッセージ性が弱くなる語句を削る代わりにアニメの特性を生かした演出で、すずさんの内面世界をいかに伝えるかに力を入れているのに。
また、冒頭の人さらいのエピソード。すずさんの記憶のフィルターを通すことであたかも童話のように描かれているが、あれが(すずさんは気づかないだけで)夫婦のなれそめになっていること、やはりすずさんの子供の頃のざしきわらしのエピソードがあの時代の社会の不公正を示すものだったことが後にわかる展開からすると、(作中世界での)なんらかの事実、それも2人にとってかなり危険な状況を示すものだったと考えうる。その人さらいがエピローグ近くに姿を見せるということは今もなお戦前の社会での不公正は続いているということを暗示しているともみなしうるだろう。
戦争は大勢の人が殺し殺されること、しかし、その痛みを背負い、後の世の人に伝えるのは大量死の中を生き延びた人々。今も健在で戦後を生き抜いて下さった被爆者がおられる広島では特にそのことを思うことが多い。すずさんは広島の住人にとって、今もお元気で近所に暮らしていてもおかしくない人なのである。
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