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2016年12月18日16:02

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クリスマスとシステムと私

http://www.sharing.org/node/596 より

あなたと私は、私たちが世界の問題の原因だと非難するシステム自体を構成しています。私たちがクリスマスにイエスの名のもと弱った地球からショッピング街で消費という略奪を行う時、それはあからさまに実証されます。今年、キリストの誕生を祝うため自由と正義の旗のもとで結束し、世界中の飢餓と貧困をなくすために平和的デモンストレーションをするより他に良い方法があるでしょうか ー モハメッド・メスバヒは記す。 政治家に失望し、社会の問題に苦悩し、そこにはなにか腐り切ったシステムがある印象を受けます。ためらうことなしに、私たちはシステムを批判し責めます。しかしながら実際には「システム」などというものは存在せず、過ぎ行く日々において、世界情勢を変えるためになにもしないという偏狭で自己満足的な生き方の中で、あなたと私だけが存在するのです。世界を見て、「なんと腐ったシステムなのか」と言った途端に現実を見逃し、私たち自身と人類の問題との間に分裂を生じさせるのです。実際、システムが私たち皆の共同制作の結果であるにもかかわらず、自分たちとはいかにも違った存在としてシステムを名指しし、人類から自身を切り離すマインドの驚異を観察するのはなんと奇妙なことでしょう。 例えば、テレビで口論している政治家を見ていて、私たちはもし自分たちが選んだ政党がまた約束を破ろうものなら、投票する政党を変える傾向にあります。恐らく、私たちは45年間労働党へ投票してきましたが、彼らが税金を上げる恐れのある今、自分たちのより自己中心的な関心に沿った政策を制定するという誓約を掲げる保守党を支持することに決めます。活動家となり世界中へ真の変革をもたらすために他と結びつく代わりに、まるで政治家が親であり、私たちは彼らに頼る子供であるかのように振る舞い、 主に自分のことだけを考え、社会を改善する全ての責任を政府へ丸投げしているのです。その間に政府は権力を保ち各投票者の先入観へつけ込むために、彼らが理解することのない破壊的市場勢力を使ってごまかし操作することにより、複雑な計画と利益をもたらす投資を魔法のようにだしてみせるのです。私たちが家のローンを心配し私的な幸福のための個人的聖戦へ挑んでいる間、社会や環境、また次世代の将来の展望に対して破壊的な影響の原因でもある商業化勢力を野放しにする許可証を無知な政治家に与えているのです。そして更にこの地球の創造性、正義、自由、人間の進化の自然の流れを妨げることに自分たちが一役買っている事実を認識することなく、その結果としての社会的、経済的混乱の全てをシステムのせいにするのです。 私たちが好んでシステムと呼ぶ日常生活の単調でつまらない仕事と分裂を顕現することに自ら請け負った役割を、私たちはなぜ内部の認識を通して理解できないのでしょうか。私たちは何度資本主義を責めるのでしょうか。特に、それがマインドに分裂を生むこと、そしてその分裂自体が「主義」の本質そのものである事実を悟ることなしに。自分たちの権威を政治家へ放棄し、自己の行動の欠如と無気力のせいにかかわらず、 全てがうまくいかずシステムを責める時、投票という行為は主義の直接的表現となります。もし私たちが常に主義や対立するイデオロギーに基づきお互いの間に分裂を生じさせているとしたら、社会がどう統治され構造化されるべきか政治について話し合うことにより、あなたと私は時間を無駄にしているのです。恐怖、自己本位、そして自己満足的な無頓着さを隠す口実として、自分たちが執着する政治的主義はもとより、全形態における主義をつくり代表しているのは私たちです。「あなたは労働党」「私は保守党。私の政党はあなたの政党に同意しません」「私たちはイデオロギーのために戦争をします」。両者の状態は同じレベルの思考から起こります。そして周りの世界が徐々に死んでいっているこの時でさえ、私たちが皆でつくりあげた心理的分裂に苦しむのは私たち人なのです。そして、共同の責任から逃れることはできないのです。自給自足のコミュニティーへ引きこもり、それにより自己を心理的または物質的に社会から切り離すことによってさえ逃れられないのです。人類が死んでいっている限り、私たちがこの地球での生き方を完全に変えるまでは、いずれにせよ私たちも死んでいくのです。 資本主義の捉えどころのなさ 資本主義が人々と地球に対しなにをしているのか、また社会運営の様式がどのようにしてこれほど緩み、コントロールがきかなくなったのかについて、もし心理的観点から注意深く考察し理解するとしたら、私たちは、自己満足的な無頓着さ、貪欲さ、盲目さ、そしてなによりも集団としての傲慢さ、といったいくつかの基本的要因を突きつけられます。従ってもし資本主義が腐っているなら私たちも全員腐っているのです。なぜなら、私たちは何代にも渡ってこのよこしまなシステムをつくり維持してきた人間の振る舞いを代表しているからです。実に私たちが資本主義と呼ぶ純粋な意味でのそれはもはや存在しません。今日私たちが目にする全ては、孤児と化した分かち合いの原理の最もあからさまな対極に立つ未亡人となり堕落した原理の乱用です。政治的、経済的意味での分かち合いは余りに徹底して無意味なものにされてしまったため、それは既存の政府のトップレベルの間で殆ど理解されないと同時に、かつて大学で教えられたような資本主義の古い考え方はここ何十年かの間で失われ、実にひどい人間の振る舞いに完全に取って代わられました。 従って、人類の問題をシステムのせいにすることは私たちの真剣さ、成熟さ、そして認識の欠如を象徴するにすぎません。社会とシステムに対する厳しい批判によって自分たちをお互いから切り離す中で、その心理的分裂が遂には残りの人類に対する無関心としてそれ自体を象ります。私たちは働き、眠り、そして生計を立てるためにあがくと同時に、習慣的日常活動の空虚さに関係なく私たちが「私の人生」と「私の権利」と呼ぶ自分たちの小さな箱の中の楽な存在を続けていくことをむしろ好むのです。私たちは一番に、そして真っ先に自分たちのことを考え、どんなことよりも私たちの休暇、私たちの年金、私たちの楽しみ、そして私たちの家の改善を優先します。「私は煩わされたくありません」が、私たちの頭上に掲げるのにふさわしい張り紙です。勿論、快いものに囲まれ不自由なく謙虚に暮らすことはなにも間違っていません。しかし、富裕者がこの世界で真に快適に生活するためには、他の人も皆必要とするものを持っていることが確かでなければなりません。そうでなければ、彼の快適さはボディガードと防護フェンスの費用分高くつくことになるでしょう。貧困者でさえ、常に意気消沈し無気力であり続けるうちに、分割された世界の不正を受け入れるよう大変強く条件付けられており、よって団結しシステムの不平等へ挑戦しようと思いません。私たちの自己満足的な無頓着さは余りに長い間、恐怖と自己知識の欠如によって感情レベルに保たれてきたため、それはほぼ遺伝子に組み込まれてしまっています。人間としてのより崇高な目的と創造的可能性に対して最後には私たちが霊的に死んでしまうまで、そしてお互いの間の心理的分裂自体が人類の進化をこのように時間のかかる痛々しいものとしたのです。 この観点からシステムと呼ばれるものは、異なった国々の人同士の関係へと同様、社会の中のお互いの人間関係への誤った姿勢であると簡略に定義付けできます。社会が私自身の延長であり、私自身が国内、国際レベル両方の顕現においてのシステムであるという心理的事実を理解するなら、貧困と不正と政治的腐敗に直面した時、「それはこれまで常に存在してきたから」などと言うことはもはやないでしょう。一度、人類の問題から誰一人として放免されることがないと認めるなら、私の意識中の原動作用の全てが根本的に変わるでしょう。そして少なくとも、私は各国で起こっている自由と正義のためのデモンストレーションに参加するでしょう。システムを責めるのみで世界情勢を変えるためになにもしない人々の自己満足的な無頓着さは事実、ペテンの一種です。裕福か貧困かにはなんら関係ありません。個人的な快適さと幸せだけを求め、世界を脅かす緊急事態に対しての認識がなく無関心な生き方は、私たち自身と他の人々両者にとって維持していくには心理的に危険です。人生に対しそのような態度をとりながら、市場勢力が暴動を起こし、社会分離と広範囲の破壊の原因になっていることに文句が言えるのでしょうか。商業化が私たちの動脈に入り込んだ今、私たちの集団としての自己満足的な無頓着さがあまりにも広く蔓延してしまったため、世界の大変動とアルマゲドンについて語る狂信者に耳を傾け始めねばならないかもしれません。実に、もしこれを人類のベストと呼ぶなら、共に結束することに大衆が目覚めるために残された唯一の希望は、恐らく世界経済の最終的な崩壊でしょう。 クリスマスにおける私たちの共同犯罪 システムを維持する中で、クリスマスのお祝いほど私たちが暗黙の共犯者である良い例はありません。この時期、私たちはイエスの名のもとショッピング街で消費に消費を重ね、弱った不幸な地球から略奪します。私たちのうちなん人がリサイクルをし、環境の価値を強く主張し、そしてその後12月25日がやってくる時、倫理の全てに別れを告げるのでしょうか。費用がいくらかかろうとも祝わねばならないのですから。そしてひいてはそのように沢山のお金を高価なプレゼントに使うことは政治的追従行為であり、根本的に自己の叡智と自由を拒否する行為であることを私たちは認識していません。私たちはある一定のライフスタイルのイメージを保つため、十分なお金がなくても、借金をしてでも友人や親戚へプレゼントを買うことを選ぶのです。経済と環境の両方の観点から、何百万人という人々、そしてすべての国々が維持不可能な負債を抱えているにもかかわらずです。とてつもないストレスと苦しみを抱える現代において、心理的にお互いから切り離され生きている悲しい真実を内面でわかっているにもかかわらず、それでも私たちは天国に座す捉えどころのない、髭を生やした父の名のもとにクリスマスを祝うのです。あるいは、「皆で再会する」機会を楽しむ幸せな家族という名のもとに、内側の孤独で条件付けされた存在の空虚感を埋めるという名目で、また、毎年クリスマス・イブにすべての子供たちがパブロフの犬の条件反射の実験における最適な候補者となるまで、すべての不必要なプレゼントで子供たちを惑わすという名のもとに、クリスマスを祝うのです。そして、世界に起こっている全てにおいて私たち自身も同じく責任があるにもかかわらず、地球を破壊するのは政府、企業、システムのせいだと言って私たちはお互いを騙し合うのです。 これはクリスマスの祝祭を非難したり、あるいは他の人々のお祝いを批判するためのものでもありません。ただ単に今日起こっている現実について偏見のないマインドを通して問うためのものです。それは裁くためでも非難するためでもありません。なぜなら既に明らかなように、世界の問題について私たち全員が責められるべきであり、誰もそれから放免されることはないからです。むしろ、それは完全な正直さを持って問われるべきなのです。今日知られているクリスマスは愛やイエスとどう関係あるのでしょうか。この問いと向かい合う勇気と誠実さを持って答えを見つけるために私たち自身の内面と静かに向かい合いましょう。「メリークリスマス」「明けましておめでとう」の同じ挨拶を毎年何度も繰り返すことにより「人生は続く」のだとお互いと自分たち自身を装う価値はなんでしょうか。毎年私たちの生活が全く同じままであり続ける時や、多くの一般人が自殺に追いやられるほど毎日が恐怖とストレスと不安感で満ちている時に、これは一体どのような挨拶でしょうか。私たちの殆どがさまざまな度合いの落ち込み、寂しさ、そしてお互いから心理的に切り離されて生きる人に言えない痛みを苦しんでいる時に。そしてとりわけ、日常社会に適応し普通であるよう見せるためにつくられたイメージを通しとても上手に隠している霊的貧困を私たち皆が病んでいる時に。私たち自身のイメージは、相当なストレスと負担を通して築かれ、それは何十年という月日の間、時には一生保持されなければならないのです。 更に深く掘り下げてみましょう。そしてなぜ、クリスマスの時期に、笑いと、食卓を越えて今世界で起こっていることに無関心でクリスマス・ディナーを楽しむためだけに、偽りのいわゆるクリスマス精神のもと何百万という多くの動物を殺し、あれほど多くの木を切り倒すのか追究してみましょう。イエスの愛が私たちの家に毎年12月25日にだけ伝わるかのごとく、自分たちの不安で空虚な存在の穴を埋めるため、毎年1月1日までに膨大な地球の資源が破壊され無駄にされてきました。結局のところその全ての破壊と自己道楽は、真実あるいは道徳的な目的のためではなく、ただの信条のために行われたのです。悲しくも私たちの多くが徐々に気づいているように、歪められた教義の迷路の中で数千年間教会が私たちをその信条へと惑わせ導いてきました。あのように沢山のプレゼントを買うのは愛と親愛の情の表現だと私たちは自分自身に言うかもしれませんが、なぜその愛が毎年決まった日に表現されねばならないのでしょうか。それは本当に愛なのか、それとも私たちの叡智の否定と「信条に対する信条」に基づいた追従と条件付けなのでしょうか。それが後者である場合、クリスマスプレゼントとクリスマスツリー、そしてあのように沢山の食べものと飲みものを群れをなして買い漁るのは、本質的に愛と自由の欠如した社会的行為であり、必然的に精神的、または霊的不快感によって特徴付けられるものです。なぜなら、追従は恐怖に根ざさない限り存在できないからです。それは自動的であり、それゆえこの地球に対する暴力とは考えてもいないのです。そしてそれは最終的に私たちの内部の認識と創造力を蝕みます。それは、集団としての共犯、偽善、そして自己満足的な無頓着さから自分たちの注意を習慣的にそらしながら、私たちが嫌うと公言するシステム自体を永続させる中で毎年繰り返す無意識の嘘なのです。 私たちは皆ペテン師 私たちが皆この現実の一部だということ、そして現代社会へ参加しているというだけで、私たち皆、ある程度ペテン師であるということを憶えておいてください。そしてクリスマスを祝うことは犯罪ではないので、自分たちを責めるのではなく、できる限りの謙虚さで自分を省みてみましょう。自分たちの行為を認識し、私たちが酷く嫌悪するこのシステム自体を自分たちが構成していることと、私たち皆を支配下に置くシステムを自分たちが強化しているにもかかわらず、この極めて有害な社会秩序の創造に自らが演じる役割を理解することを拒んでいるという事実を、自覚するよう試みてみましょう。世界で起こっている全ての相互依存を共に観察してみましょう。そして私たちが現行と違う、真に愛情のこもった方法で、クリスマスを祝うことができるか考えてみましょう。なぜなら、私たちのお祝いを導いているのはキリストの愛ではなく、むしろ私たちの条件付けと追従をご馳走として楽しみ、今、私たちの喉にナイフを突きつけている商業化勢力だからです。それが、本当に起こっている真実です。それは、クリスマスセールで躍起になっている買い物客の行列を観察した誰もが証言できることです。私たちを常に深まる負債へと押しやる私たちの社会的追従というご馳走を銀行が楽しんでいる間、多国籍企業は私たちの条件付けされた購買衝動というご馳走を楽しんでいるのです。そして維持不可能な借り貸しの全システムが崩壊する時、溶けゆく経済を生還させようと、無謀な銀行に救済処置を施すのは政府です。しかし、通常とされる生き方の続行を求め、以前と同じ利己的な振る舞いへ素早く戻るのは私たちです。そして、それによって不正なシステムを進んで保つのは私たちなのです。世界情勢が余りに不安定で、もうすぐ富裕者へも貧困者へも救済処置が可能でなくなるかもしれないというのに。そしてそれにもかかわらず、12月25日がやってくると、まだ私たちは祝うのです。そしてそれはキリストや、彼が言ったこととは絶対的になんの関係もないのです。私たちは皆、十字架上のイエスの言葉をよく知っています。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。しかし今日では人類が黙って無意識的にこう言っているかのようです。「わが神よ、どうして私たちは商業化に私たちの生活を支配させ、それゆえあなたの神聖王国を汚し、正しい人間関係についてのあなたの教えを放棄することによりあなたを見捨てたのでしょうか。」 12月25日は悲しく悲惨な日だというのが現実です。なぜなら私たちがキリストの誕生を祝っている時を同じくして、クリスマスのご馳走などの贅沢どころか生活必需品さえ剥奪された何百万人という男女子供が存在するからです。1月1日に新年を迎える時、遠方の国々で私たちの兄弟姉妹が死にかけているちょうどその瞬間、私たちはお互いに良い新年がくるよう願うのです。まるで飢えと栄養失調と病気による不必要な死を祝っているかのように。それでも、今までずっとそうであったと私たちは反論するかもしれませんが、もし自分たちの家族の誰かが死んだとしたら(起こらないことを願いますが)、クリスマスと大晦日を愉快に祝っているでしょうか。ではなぜ、私たちは回避可能な貧困が原因で毎日4万人が死んでいるのになにもせず、それが当たり前だと思うのでしょうか。このような時実際は、「人生は短い」「どうせ人生は一度きりだから」「皆で一緒に楽しもう」といった使い古された決まり文句に隠れた自己満足、鈍感、そして無責任で居続けるために自ら名付けた自由を、私たちは祝っているのです。一度大晦日に試しに、その夜なにもしないで家に一人で居てみてください。テレビもつけず誰とも連絡を取らないで。そして、外では皆が大いに楽しみ愉快にやっているのを知りながら、大晦日にあなたがどれだけ寂しい思いをするか試してみてください。その瞬間、あなたが激しい飢えで苦しんでおり食べものを手に入れる展望が全くないのに、世界は無邪気に新年を祝い続けていることを想像してください。どのように感じるでしょうか。 それがどのように劇的に見えようと、集団的、そして世界的規模の私たちの自己満足的な無頓着さは余りに危険で、それが他の人々を殺すという事実は依然として変わりません。私たちの自己満足的な無頓着さは直接的、または間接的に貧困者を殺すのです。しかしそれは、私たちが残りの人類から分裂した生き方を追い続けると同時に、霊的、そして道徳的な意味で自分たちをも徐々に殺すのです。私たちは皆、世界のどこかで貧困から人が死んでいるのを知っていますが、どれだけの人がそのためになにかをしているでしょうか。それは僅かな数であり、その場合、私たち自身のクリスマスのお祝いと、多くの人を殺してその後イエスと彼のメッセージを記念してクリスマスに教会へ出席するマフィアの家族との間になんら道徳的違いはないのです。勿論、人生の活発な楽しみは喜びと美の自然な表現ですが、自分の子供が自分の腕の中で栄養失調で死んでいくのを目撃している何百万人もの親たちにどのような種類の楽しみがあり得るのでしょうか。私たちがどこに住んでいようと関係ありません。私たちの周りの非常に多くの絶望的で貧しいホームレスの人々にとって、そして臆面もなく無駄にされ、それを真に必要とする人々と分かち合われることのない莫大な量の食べものと他の資源の中に、どのような種類の楽しみがあり得るのでしょうか。それでも、私たちの祝いが終わり、そして毎日の新聞を読み続け、億万長者がスラム街または大変貧しい界隈のど真ん中に巨大な宮殿を建てる記事を目にすると、私たちは嫌悪感を感じるのです。しかし、自分たちが世界的またはクロス社会的に正に同じ生き方をしているという自覚が私たちにはないのです。私たちは恥ずかしくないのでしょうか。それとも私たちの自己満足的な無頓着さはそれほど文化的に根深いがために、私たちは今完全に無関心になってしまったのでしょうか。 地球規模の自己満足的な無頓着さ このことについてあなた自身真剣に考えてみてください。そして、世界中で貧しい人々が飢えから死んでいくのを現在当然として許している私たちの自己満足的な無頓着さ、私たちの家族の自己満足的な無頓着さ、そしてどのようにして私たちの国家の自己満足的な無頓着さがこのように長年続いてきたのか客観的に理解することを試みてください。「貧困の中で死んでいくのは彼らの運命であってそれは私には関係ないこと」と事実上言っているのは地球規模の自己満足的な無頓着さです。従って、私たちの政府は何万人という人々が毎日不必要に死んでいくことを止めるために、なにもしないのです。なぜなら私たちが全員、彼らがなにもしないのを許しているからです。ですから私たちはシステムであり、システムもまた私たちです。全てが相互につながっているのです。人が無関心の人生の領域で動いている限り、「私」が正義のために自己の声を上げずにいる限り、その結果、銀行と大企業が貧窮と破壊の真っただ中お金儲けをしていても、彼らを責めることはできないのです。 苦悩する何百万もの叫び声に耳を傾けることを拒否し、これらの問題について家族や友人と話すことさえ拒否する時、私たちはどれだけの間、聞こえず話せないふりをするつもりでしょうか。私たちの愛情から子供たちを奪うことを商業化におおっぴらに許し、イデオロギーと利己主義に基づき曖昧な政策を持った政治家の権威に、私たちはどれだけの間頭を下げているつもりでしょうか。 私たちになにをすべきか、どちらの方向へいくべきか、どのようにして幸せになるか、そして誰に投票すべきかを命じる、それ自体が分裂、精神的盲目、残忍さを繁殖させる主義の規則により条件付けされたまま、私たちはどれだけの間いるつもりでしょうか。そして、毎日を新たな日として生きる自由を自己に拒否する傍ら、あとどれだけの間私たちはそのように怯えうずくまったままいるつもりなのでしょうか。今、これまで以上に私たちが自己の真の存在を抑圧することを遂にやめる時が確実にきたのです。
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