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2016年12月15日02:36

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織田信長私考

私はそんなに歴史に詳しい訳ではないが、しかし歴史のことを考えるのは好きだ。
今回は織田信長について少し考えてみたい。


あいまいな表現を承知で評価すると、
私は織田信長を、君主としては一流だったが超一流ではなかったと思っている。
一方、戦略家としては一流以上、おそらく超一流だったと思っている。

なお、原則として実績を私なりに評価しての話。
もしどういう事態だったら何ができたかという起こらなかった事実を仮定した話ではなく、
実際に起こった事態に対して何を行い、何を成したかのみを評価したつもりだ。



君主として一流というのは、己の掲げた覇業の成る一歩手前まで行ったことによる。
あの当時の日本国内、織田信長に抗しうる勢力は信長の外にはいなかった。
国力, 兵力, 人材, 地理、いずれも国内第一の勢力であり、
数多の敵対勢力の囲みを打ち破り拡張を続けていた。
ゆえに一流。

超一流ではないというのは、覇業成る前に謀反に遭って横死したことによる。
天下統一という覇業には、敵対勢力を平定するばかりでなく、
配下の勢力の支配あるいは統御も欠かせない。
全国あらゆる勢力を併呑しつつあった信長だが、
家臣の1人を統御できず天下統一を果たすことなく弑逆されたという点で、
信長の君主としての資質に超を付けるのは躊躇われる。



戦略家として一流以上というのは、その合理性による。

信長の用意周到さは有名な話で、農業ばかりでなく商業を活用して国力を充実させ、
ほとんどあらゆる戦において大軍を用意することができた。
加えて温故知新というか、旧来のもので良いものは利用しつつ、
新しいもので実用性のあるものは積極的に取り入れて行く先見性も、
技術革新という意味でかれ自身に大きな利益をもたらした。

また敵の戦闘準備を妨害し、あるいは内応工作、あるいは外交、あらゆる手を尽くし、
上記の大軍と併せ、戦端を開いたときにはすでに勝負がついているような、
そういう戦略の組み立てと実現とが可能だった。

ゆえに一流。



では超一流かもしれないというのは、何かというと、その対応力による。



状況を我が方有利となるように周到に準備して行く能力は、
上述の如くかれの戦略家として一流たる所以だが、敵も当然同じことを試みる。

如何に信長が優秀と言っても、一瞬ですべての状況をコントロールできる理はない。
工作には時間が要る。
特に、電話や電信のような瞬間伝達手段もなく、最速の移動手段といえば馬か船か。
そんな時代では状況把握も、それに対する反応も一瞬という訳にはいかない。

まして不動の大国となった後は兎も角、拮抗しうる勢力がまだ多数ある状況では、
どうしても敵に先んじられ、予定外の事態、つまり危機が訪れることはある。

これに如何に対処するかが、一流と超一流とを分けるポイントではないかと思う。

つまり、優れた長期的視野に立ち周到かつ可及的速やかに準備を進める能力は、一流の要件。
その途中で起こった危急の妨害因子に臨機応変に対応できる能力が、超一流の要件と。



信長の戦略家としての生涯を大雑把に分けると、以下のようになると思う。

1. 尾張統一まで:今川家との抗争
2. 美濃併合まで:斎藤家との抗争
3. 信長包囲網:中央進出そして対織田大同盟時代

このうち1, 3において、信長は大きな危機と、そしてブレイクスルーとを経験している。
そのそれぞれについて見ていきたい。



1. 今川家との抗争

一つ目の危機は、緒川城の攻防戦。

当時信長は尾張の中では最大勢力ではあるものの、いまだ尾張一国だに支配していなかった。
尾張の国南東部の国人衆には東の今川義元の被官となった者もおり、
尾張北部にも清須織田家など、同じ織田一族の対抗勢力があり一枚岩ではなかった。

これに対して今川義元は駿河, 遠江を領有し、三河の松平氏をも下して三国を治める大国の主。
国力の差には歴然たるものがあった。

緒川城は信長の版図の南部に位置する城で、今川領たる三河との国境、つまり最前線にある。
西暦1554年、今川方はその近くに付け城を築く一方、近隣の国人を寝返らせ、
城を信長領から遮断した(人の出入りが妨げられるほどの"封鎖”ではない)

ここが今川方の手に落ちれば、尾張南部はまるまる今川家のものとなる。
そうなれば信長方の国人はさらに動揺し、今川家への鞍替えを図る者が増えよう。
信長の勢力はなし崩し的に弱体化し、やがて織田家は滅んでしまう。

信長にとってはここを乗り切れなければ滅亡という大きな危機であった。


この時期、緒川城周囲に展開していた今川軍の勢力は不明。
義元にしてみれば尾張における"小競り合い"のひとつであり、
国を空にしてまで全軍を投入するのは利益に比して危険のほうが大きい。
ゆえに動員しうる限りの全軍が出動していたとは考えがたいが、
しかしあまりに少ない兵力では勝ちが不確実になる。
確実に勝つために、一定以上の兵力を投入していたのではなかろうかと思う。

信長とて清州などとの兼ね合いもあり、本拠の那古野を空にするとは考えにくい。
その点も踏まえ、信長がこの戦線に投入しうる最大戦力を撃退するに十分な兵力を、
義元は投入していたのではなかろうかと思う。

信長, 義元の国力差を考えると、これは義元には幾分余裕のある戦いだったろうと思う。

一方、信長にはまったく余裕がなかっただろうと思われる。
信長は本来那古野の後詰に残すべき兵力まで割いてこの戦線に投入した。
背後に敵のいる状況で本拠地を空にするなど本来は国が滅びかねないほどの暴挙だが、
信長はそれをした。
それは、那古野の後詰まで回さねば勝てる見込みは薄かったことの証左だろう。

この暴挙を可能にしたのは北の同盟国、斎藤道三の存在だ。
道三は千名の兵力を信長に貸し、那古野城の後詰とした。
信長は後詰を受けると直ちにほぼ全軍を率いて出撃、緒川城の救援に赴く。
ただし緒川城に至るまでの道もまた今川方に寝返った国人の領域であり、
陸路救援するためにはそういった国人衆を打ち破って行かなくてはならない。

そこで海路を使う訳だが、折悪しく大時化。
信長配下の諸将は躊躇ったが、信長はここで救援できねば織田方はじり貧、
なし崩し的に尾張を獲られてしまうだろうことを理解していたのだろう、
大時化のなか海路を強行、今川方の国人領を飛び越えて緒川城に入り、敵情把握を行った。

その後、今川方の付け城(村木砦)を攻めるのだが、ここでも時間が命と考えていたのか、
(織田方の勢力が判明し、攻略に時間がかかるものと分かれば今川方も増援を送ってくる)
鉄砲を駆使して馬廻りや小姓が討ち死にするほど激烈に攻め、その日のうちに付け城を落とした。

落とした後は帰途今川領に嫌がらせの放火をしつつ、那古野に帰還。
なし崩し的に滅亡への道を辿るかどうかの危機を打開した。



二つ目の危機は、今川義元の尾張侵攻。

西暦1560年、有名な桶狭間の戦いだ。

今川義元の狙いは諸説あるが、現在有力なのは古くからある上洛説よりは、
尾張国内の織田, 今川の版図争いを有利にするためという説。
つまり上洛という全国規模のeventではなく、単純な領土拡張策。
最大でも尾張一国程度の領有を目論んだ侵攻であったとする説が有力。

従って攻め込まれた側である信長のprimary objectは、攻め寄せた敵の撃退ということになる。
今川義元の首ではなく、今川軍全軍の殲滅でもなく、敵地攻略でもなく、
ただ今川方の戦闘態勢が整わないうちに攻撃をかけ、戦意をくじくなり兵糧を奪うなりして、
敵を三河以東に撤退させることができれば作戦は成功ということになる。

信長が奇襲をかけたのは、自領内で戦っているという地の利、
および劣勢の側が兵力の優劣を覆すには敵の不意を衝くしかないという原理を以て、
おそらくこれが最良の戦術と判断したのだろう。

もちろん全軍の準備を整えた上で敵に攻撃をかけるほうが攻撃力は大きい。
しかし全軍の準備を整えれば敵もその分準備を整えてしまう。
敵の準備が整えば、あとはほとんど兵力の差のみが戦の帰結を決する。

ゆえに準備のできている少人数での襲撃は危険ではあったが、
待てば待つほど敵に有利になる以上、織田方にとっては時が命と理解していたのだろう。
4000-5000名程度の手勢のなかから直ちに動ける2000名を選んで出撃、
今川方を急襲した。

結果は、誰もが知る通り。

信長の目論見は成功し、準備整わず、隊を分散させていた今川方は壊乱した。
そしてたまたま襲撃した部隊が今川方の一支隊ではなく、幸運にも義元の本隊だった結果、
義元その人がこの襲撃で戦死し、司令官を失った今川方は信長に大敗した。

信長はprimary objectであった今川方の撃退のみならず、東の強国今川家の主を討ち取った。
今川家はこれ以降、急速に弱体化してゆく。
義元の子氏真は立て直しを図ったが、衰退を止められず10年を出ずして滅亡。
また三河の松平元康は独立し、徳川家康として信長の東を守る同盟者となった。
信長は滅亡の危機を逃れ、戦国大名としての地位を確立した。



2. 斎藤家との抗争

美濃では信長の舅だった斎藤道三が1556年に息子の斎藤義龍に滅ぼされるという事件が起き、
それ以後信長と斎藤家の美濃とは敵対関係にあった。

1560年の桶狭間の戦いで東の守りを固め、尾張国内の憂いもなくなった信長は、
北の斎藤義龍との抗争を始める。
1561年に義龍が急死した後はその子龍興と戦い、美濃の領有を試みた。

この時期は小競り合いと美濃国人衆の切り崩し工作との時期。
大きな危機とブレイクスルーとがあったというよりは、
徐々に足場を固めて美濃を奪い取ったというに近い。

斎藤家を討ち滅して尾張美濃二国の太守となったことで、
織田信長は単純な国持ち大名から、一地方の覇権を握る"地方覇者"へと成長した。



3. 信長包囲網

美濃攻略後、信長は足利将軍家の後継者争いに乗じ、流浪の足利義昭を奉じて入洛、
義昭を傀儡として天下人としての振る舞いを強める。
中央集権国家"織豊政権"の前半期、"織田政権"の誕生だ。

が、義昭としてはもちろん傀儡になるために信長を頼った訳ではなく、
将軍として実権を得ることが目的であった。
当然信長と義昭との間には水面下の対立が生まれ、
以降義昭は周辺諸勢力に檄を飛ばして信長との抗争を指示する。
周辺諸勢力も信長の伸長は好ましくないので、好機とばかりに敵対行動を深めてゆく。

いわゆる、信長包囲網の時期。

この時期には金ヶ崎の撤退戦、武田信玄の西上など大きな危機は幾つかあった。
しかし金ケ崎はただ逃げて逃げおおせただけだし、逃げのびれば済む程度の危機であった。
そして信玄西上は信玄の死によって立ち消えになった。つまり危機は自然消滅した。

信長にとって直接対処すべきだった最大の危機は、おそらく大坂の石山合戦。
そのうち、天王寺砦の攻防戦だったかもしれない。

石山合戦は1570年より足掛け11年にわたり行われた信長と石山本願寺との武力抗争だが、
天王寺砦の戦いはその半ば、1576年に行われた。

その11年間ずっと激しい城攻めや野戦が続いていた訳ではないが、
織田家と本願寺との間には慢性的に交戦状態が続いていた。

1576年は、織田信長が姉川で浅井, 朝倉を破り、長篠で武田を破ったあとの時期で、
徐々に形勢が織田方に傾きつつある時期ではあった。
しかし同時に西方、中国地方の覇者たる毛利家が信長包囲網に加わり、
本願寺を支援したことで、一時的に信長包囲網が盛り返す事態になった。

本願寺の11代目門主顕如は畿内の門徒を大坂の石山本願寺に招集、
5万人もの門徒兵を寺内町に確保するを得た。

織田方もこの動きを察知して石山本願寺の周囲に兵を置き、
互いに砦を築いて睨みあうこととなった。

が、おそらく織田方としては5万の敵兵を一度に殲滅しようとは考えていなかったようで、
小競り合いの連続のような長期戦を考えていたのだろう。
半端な兵力で本願寺方の砦に攻撃を仕掛けたらしい。

これに対し、本願寺方は1万の兵を以て応えた。
織田方の攻撃隊を襲撃し、大将を戦死に追い込むまでに大勝した。
そのまま織田方の天王寺砦を攻撃するに至った。

天王寺砦の守将は明智光秀。
有能な将ではあるがさすがに敵の大軍に包囲されてはどうにもならない。
信長に救援を要請した。

これが織田家存亡の危機だったかというと、そうとは限るまい。
ただ大坂は京にも近く、京から山陽方面に出るにも、南海方面出るにも近くを通る位置だ。
そこに石山本願寺のような大勢力が居座っているのは、
京を中心に版図を張る織田家としては頭の痛い話。

ここに大きな敵が居座り続けることによる経済的, 戦略的損失は大きい。
最低限でも完全封鎖に追い込まなくては西方との交易にも差し支えるし、
中国, 南海への進出も難しい。

そのやっかいな敵勢力たる石山本願寺との戦いは、いまだ帰趨定まららざる状況。
そこで大敗を喫してしまえば、敵はますます勢いづく。
一方の織田方は損害の立て直しに時間を要し、大坂攻略は遠のくことになる。


ここは何があっても天王寺砦を持ちこたえさせ、敵の反攻作戦を挫折させねばならない。
信長はそう判断したのだろう、初めは動員令に応じて集まってくる兵力の終結を待ったが、
天王寺砦から数日の猶予もなきこと報告を受けるや、
既に準備のできている3千人のみを自ら率いて出撃、
砦を攻撃中の本願寺方1万5千人を急襲してさんざんにこれを破った。

討ち取られた本願寺方の兵は3千人近くに及んだという。

この戦闘で、石山合戦の趨勢は決した。
本願寺方はこれ以降本願寺およびその寺内町に閉じこもり、籠城に徹するようになる。
織田方はこれを封鎖して封じ込める一方、水軍の戦いでも勝利して本願寺方の補給を遮断した。
本願寺は完全に敵中に孤立した形になり、信長は中国攻め、紀伊攻めなど、
本願寺をさほど気にすることなくさらに拡張戦略を続けられるようになった。



最後の危機は、本能寺の変。

ただしこれは失敗例で、信長はこの危機に対処しきれずに命を落とした。
これを生き延びて事態を収められていれば信長の評価は日本史随一どころか、
世界史でも指折りと言ってよい水準になったかもしれない。

が、信長はこれに対処できなかったので、その点は評価から差し引かざるを得ない。

まあ、内部の重臣による叛逆なので、
戦略眼というよりは人物鑑識眼の領域かもしれないが。




織田信長が戦略家として日本史のなかでも指折りの偉人だと思うのは、
根本的にきわめて合理的かつ長期的見地に立った戦略を設計, 遂行できるのみならず、
その計画を狂わしうる危機を正しく評価する眼力、
そしてそれに適切に対応する即断力に優れていたと考えるからだ。

長期的戦略を組み立てるだけならば、どの時代にも優れた人物はいただろう。

しかし想定外の事態、あるいは想定していても大局的には対処の難しい事態に際し、
リスクを瞬時に正しく評価し、直ちに適切な手段を講ずることのできた人物はそう多くあるまい。
おそらく、信長ほどとなると、日本史においては追随する者なき水準と考える。
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