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2016年12月12日19:18

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面白い体験をしたので、記録しておきます

今日の午前中、区営の体育館で、ノルデイックの練習中のことです。

テニスコートの周囲428mを、グルグル回るだけなんですが。

たまたまそこに、近所の公営保育園の3人の2歳児前後が、保育士の若い女性2人につれられて、散歩にきていました。

彼等がイチョウの落ち葉の絨毯の上で、解き放たれて遊んでいるのを、横を通るごとに、ワタシは見てはいたのですが。

保育士たちは、子どもたちをノンビリと自由に遊ばせていていて、特にあれしろこれしろは口出しせず。
子どもたちは、落ち葉の絨毯の上で、ボールを転がしたり拾ったり、まだ遊びともいえない自己チュー妄想の世界で、思い思いにうごめいていました。


3周目ぐらいに、ジョギングコースを私と同じ方向に移動中の彼等に遭遇したので、そのまま伴走する形で、さりげなく声をかけて。

「この年齢の子は、まだ集団の猿の中から、個体の識別認知が出来るんだけど。
もう少し大きくなると、抽象的認知が発達して、猿は概念としての猿として認知してしまうので、個別認知ができなくなるらしんだよね」
という話を保育士たちにしたら。

保育士たちも、興味を示してきたんですが、それ以上に子どもたちが、三人三様に大変興味のある目でワタシを見上げはじめて、シッカリと見つめてきます。

まあ、向こうにして見れば、家族以外で、昼間は保育士以外には、接してこない環境でしょうから。
ヒマそうな爺が話かけてきたというだけで、物珍しさもあったのでしょうが。

だからといって、ワタシが何をいっているかなど、彼等には解るはずもないのですが。

それでも、話している爺が、自分たちのことを話題にしているということは、解ったようです。

*これは、公園で子どもを乗せるポニーたちも、同様の反応をします。

で、なんか返事らしい反応をする子もいるのですが、互いに初めて遭遇した宇宙人同士みたいに、意味が通じないまま、見つめあっていたんですが。

まあ向こうは、「爺」という概念で、ワタシをみるのではなく、猿の集団の中から個体認知ができる目で、ワタシという存在そのものと、会話する目で見つめてきます。

錯覚かもしれませんが、ポニーよりははるかに高度な知性と遭遇している感じで、相互に存在感を触れ合わせる時間が流れました。


ところがそこに、別の保育園の子どもたちだという集団が、3人ほどの保育士につれられて、コースの反対側から、7,8人やって来ました。

たまたまぶつかったのが、相互にジョギングコースを反対側から移動する最中にぶつかる形になったので、そこで一同は融合するわけではなく、互いにアイサツしあって、すれ違う状態になったのですが。


そこでおどろいたのは、年齢的には、まったく同じ年代なはずですが、思わず「年齢がちがうの?」と声を上げたくらい、集団の雰囲気がまったく違うわけです。、

こちら側は、特にハシャイデいるわけでもなく、静かに箱型乳母車におとなし乗っていて。
すれ違った向こうの集団も、同じような形態で移動しているのですが。

「人種が違うみたいに、違うなあ!」
と、ワタシは思わず叫んでしまって。

驚いた保育士が、「どう違うんですか?」というから。

「こっちの子は、三人三様の個性が感じられるけど、向こうはみんな同じ顔して、お人形さんみたい」
というと、2人の若い女性保育士は、「なるほど」と納得してました。

ワタシの瞬間的観察は、ワタシ独りの思い込みではなくて、2人の保育士も、言われてみれば「なるほど」と納得する差異が存在したようです。


*これは、保育に関わる保育士たちの性格、関心、子どものへの接し方による、子ども集団としての「色」の違いなんでしょうが。


すでに2歳児前後で、扱い方によって、知性の輝きを育てることを、改めて感じた経験でした。


最近、幼児への虐待が、資質のよる所が多いとされるサイコパス(精神病質者)にたいして、以下のような特徴をもつソシオパス(社会病質者)を育てるといわれていますが。


例えば、アメリカ精神医学会による「精神疾患の診断・統計マニュアル第5版(DSM-5)」では、次の特性のうち、3つ以上あてはまると反社会性パーソナリティ障害と定義される。

1. 日常的に法を犯す、または法を軽視している
2. つねに嘘をつき、他者を騙そうとする
3. 衝動的で計画性がない
4. けんか腰で攻撃的
5. 他者の安全性についてほとんど考慮しない
6. 無責任で、金銭的にルーズ
7. 良心の呵責や罪悪感がない

両者の共通点は、他者の権利や感情を軽視し、人を欺くが、だからといって全員が危険な犯罪者というわけでもなく。
一般的に言われている大きな違いは、サイコパシーは総じて先天性のものであり、ソシオパシーは環境によって形成される後天性のものと言われているけど、もちろんまだ定義そのものも、アイマイな世界なわけで。

*たまたま今日見た3人の2歳児未満の目にやどった知性的キラメキと、そろってお人形さん然とした可愛らしさに統一された2歳児集団との違いは。
幼児期からの大人の働きかけが、いかに重要な役目をするのか、垣間見れた感じです。

DSM-5がまとめた7つの特性は、遊びの中で、自分なりの試行錯誤や葛藤の克服を経験していない。
むしろ「シツケ」と称する、大人の心配と過保護による子どもの「存在としての自由意思」への、権利侵害の反抗と想像できるわけで。

こうした精神状態と行動の固定化が「子どもの反抗症」的言動て、それがやがて総体としての「非生産的反社会的人格構造」を作り上げていくということが、考えられるわけで。
一方、今日体験した、わずかなワタシの声かけで、はじめ少しグズっていた一人も含めで、3人が3人とも、まぶたを見開いて、正面からワタシをしっかり見つめた表情にあふれた知性の輝きは。

子どもを壊すのも、「環境としての大人」であるように、子どもの知性を育てるのも、「環境としての大人」であることを、しめしていることが、改めて見えてきたようで。

むかしイギリスだったかの孤児院で、入り口近くのベッドの子が、慰問客の関心と愛情を一身に獲得することで生き延びて、獲得できなかった子が短命だったという報告があったけど。

特に2歳児ぐらいだと、抽象能力や言語化能力が発達していない分、「自分への関心」が、驚異的な効果を発揮する可能性を感じた次第でした。


2歳児段階での精神的健全さを、何でみわけるか?ということは、かなり熟練度がいることで。

同様のことは、コミニュケーション能力の衰退が起きている老人の認知症への対応でも起きていることなわけで。

ソシオパスが生れるには、環境の影響が大きいことと同様に、認知症もまた環境が作るともいえるわけで。

被虐待児が、離人症的・統合失調症的な心象風景のなかで、希死念慮の妄想にとりつかれてもがく姿を見ていても。

まだ適切な特効薬が生れていない以上、やはり社会による「見守り」が、今は最大して最良の治療法ということになるのでしょう。



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