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2016年12月05日17:38

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社会のルール

■弁護側が責任能力争う=妊婦刺殺、殺意も否認―大阪地裁
(時事通信社 - 12月05日 11:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=4326171

僕はかねがね、責任を取るのに能力なんて関係ない。
自身のやった行為に対して責任を取るのは社会で生活する上で当然だと思っている。

もし、それが出来ないのならば、その人は一般市民と共に社会生活をしてはいけないのだ。

これを差別だ何だと言う人も居るだろう。

でも考えてみて欲しい。

自分の愛する妻が、何の落ち度も非もないのに、突然暴漢に滅多刺しにされ、殺されてしまったら。
自分の大好きなママが、自分の目の前で、突然恐ろしい男に滅多刺しにされ、殺されてしまったら。

なのに、その男は精神疾患があるからって、責任能力がないからって、罪を認識することが出来ないからって、殺人という行為の責任は取らなくていいと、法で護られるのだ。

アタマがオカシかろうと何だろうと、其奴は社会生活を送る上での最低限のルールを破って、他人の生活や幸せを滅茶滅茶に踏み躙って、家族を壊し、人の命や人生を奪っておきながら、当の本人は、その責任を取らなくて良いと法で護られる。

こんな理不尽な事があるだろうか。

こういう記事を目にするたびに思う。

僕には、愛する妻も居れば、愛する2人の息子が居る。
愛する護るべき家族がある。

だから。
どうしても、こうした記事を目にするたびに、遺された被害者の家族のことを思ってしまう。
そして、もし、自分がこの被害者の家族だったら、とそう考えてしまう。

こんな理不尽な事で、加害者の罪が値切られ、刑罰が値切られたら、僕はきっと、自身の手で妻やお腹の中の赤ちゃんの仇を取ってやろうと思うだろう。
それが社会的に許されないことであったとしても、社会のルールから外れたことだとしても、妻や子供が受けた痛みや苦しみを加害者の男に味あわせてやりたいって、きっとそう思うことだろう。

それが出来ないから。

だから、自身に代わって、法でこの男の非道な行いを裁いて貰い、行いに対する責任を取って貰おうと委ねているのに。
それすら、責任能力がないと、法が被害者の無念の気持ちよりも、加害者の人権の方ばかりを慮るのなら。
もう、自分が法に代わって、妻や子供の無念の気持ちを晴らすしかないではないか。

僕は何も、精神疾患のある人は、社会から隔離して生活させろと言っている訳ではない。
我々と同じように社会生活を送るなら、その社会のルールを破って、他人の生命を奪い、生活や幸せを奪い、他人に迷惑を掛けたなら、責任能力の有無に関わらず、やった行為に対して、我々と同じように責任を取るべきだと言っているだけだ。

それが出来ないのに、社会生活だけは一般市民と同じように送るってのは、その方が差別ではないか。

これは他人事ではない。
いつ自分がこの被害者や被害者の家族になるか分からないからこそ、余計僕はそう思うのだ。

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