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2016年12月04日18:36

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「安全性と快適性」の果てにあるものは何か。

各種事故や安全に纏わる事柄の度に、いつまで経っても変わらない日本の大衆民度、意識、
安全概念における根本的思考の大いなる欠如を目の当たりにし、毎度嘆かわしくなるわけで。

モータースポーツであろうが一般的なスポーツであろうが、ライヴであろうが
各種レジャーだろうが、そこに需要があることで、伴う産業や関連業界らが
世の中を構成する要素の一つとして自ずと機能している・・・
という大前提をすっ飛ばしちゃならないわけだが、広範な社会の実状を前にした
想像力の欠片もない、「狭い家中での空想の世界」でしか生きていない者にとっては、
もはや大前提すらも考える、思い浮かべる能力がない、ってことだろう。

種々あらゆる分野が社会を構成し、各々潤沢に機能させる一つに「安全・快適性」は
欠かせない要素といってよい。世の中の変化や伴う技術的な進化を鑑みつつ、
あらゆる面での向上を図る・・というのは当たり前なこと。

その過程で不幸な出来事や事故が起こった場合、苦い経験値を活かすことにより、
更なる安全性と快適性を生み出す。もしもその時点で断念、または取りやめたとするなら、
技術革新も何も生まれず、安全性と快適性はおよそ広い分野で歩みを止める。
航空機も自動車も、家電製品も日用品も全てその歩みの中に今がある。

翻って、こうした娯楽の世界はどうか・・。
娯楽分野は人間が実生活を送る上で、絶対的な必需項目にない・・
という解釈に至るケースが時折観られるし、それはあながち間違いとは言えない。

が、人間という生き物は高度な知能を持つ反面「不完全性を内包した動物」であり、
それを補うべく休息や精神的・肉体的な補正を行うことで、長い寿命を維持せんとしている。
その中のアイデアが様々なレジャーや娯楽、文化等にある遊興だ。

それらは何よりも快適性がなければ効果を発揮せず、快適性は安全性が下支えするもの。
よって「快適と安全はセットなもの」であり、切り離せるものではない。
ましてや、時勢や社会性の変化によりどうしても複雑な構造下になりゆく以上、
それを見据えた益々の知恵や技術と、改善改良を経ねばならない。

と考え本件を見つめる時、相応の危険性が考えられるなら、相応の技術、環境、
態勢を取って然るべきで、それらがどうであったのかをこの不幸な事故によって
徹底的に洗い出し、改善出来る点や反省点等を諸々に上げ、向上に向けて
尽力することがこの分野を維持するだけでなく、発展する可能性を大いに秘めている・・
と観なければならない。発展=経済的利益・社会的利益になるからだ。

同時にその作業をするプロセスで生まれる様々なアイデアや発見は、
実はこの分野にだけ留まるものとは限らず、他の分野に応用や
発展させる可能性をも孕んでいるものだ。

本件は自動車産業の範疇にあるわけで、ここで生まれたものは狭い娯楽の領域を越えて
一般の自動車社会の場面に適用されるケースも想定出来る。
また、ハード面以外の運営体制一つ観ても、綿密な検証を行うことによって
新たに考えられる対策や方法は、他の分野にも応用が可能にもなり得る。

だからこそ「フタをし目を背けてしまうのではなく」、しっかり対峙することが重要なのである。

これを単に、個人の好き嫌いや浅はかな感情要素、狭い価値観だけで左右するなら、
およそ高度な社会や複雑構造にある社会など、まるで機能も発展もしないだろう。

ましてや、様々な価値基準や嗜好性を持ち、多種多様な人間によって構成されている社会・・
という大前提を考えたなら、一元的な排除や抑制によって逆に大きな弊害、
デメリットを生じさせる恐れも多分に秘めている。

であるからこそ、これを教訓にし最大限に活かすこと、考えることが第一であり、
それはひいてはこの事故で亡くなられた方に対する、せめてもの報いや償いにもなるのである。

それでも尚安全性や快適性が向上しないとなれば、自ずとその分野は衰退の道を辿る。
そしてそれに成り変わるものが生まれる、新たな道が出来るものでもある。

考えをやめる、苦悩することをやめる・・
その時点で明るい未来はない。明るい未来を希望するのか、しないのか・・

答えは自ずと出ているだろう。。


ドリフト競技事故 女性が死亡
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4325033
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