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2016年12月03日00:32

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12月3日の日記

今日の出来事:1569年−大内輝弘の乱、1800年−ナポレオン戦争・第二次対仏大同盟:ホーエンリンデンの戦い、1850年−蛮社の獄:高野長英自害、1863年−中根長十郎暗殺、1888年−香川県発足し、47都道府県体制が確定、1946年−NHKラジオで日本初のクイズ番組「話の泉」の放送が開始、1959年−東京で日本初の個人タクシーの営業認可、1994年−ソニー・コンピュータエンタテインメントがプレイステーションを発売

今日は、大内輝弘の乱です。毛利元就の「防長経略」で大内氏は滅亡し、周防・長門国は毛利領となりました。大内家臣の多くは毛利氏に従いましたが、これに不満を持つ大内遺臣もいました。1557年には、旧大内氏の遺臣である草場氏、小原氏、河越氏らによって大内義隆の遺児とされる問田亀鶴丸を奉じて挙兵し、山口近郊の障子岳に籠もりました。これを毛利家臣となった内藤隆春・杉重良らが鎮定しました。「妙見崎の戦い」で敗北した草場氏らは討死し、問田亀鶴丸は捕らえられて処刑されました。その後、小規模の反乱や騒乱が山口周辺で発生しましたが、高嶺城に入っていた市川経好が鎮定しました。豊後国・大友氏の客将の中に大内氏の一族である大内輝弘がいました。大内輝弘の父・大内高弘は大内義興の弟でしたが、大友親治(大友宗麟の祖父)の誘いに乗り、重臣の杉武明と謀って大内義興に謀反を起こして失敗し、豊後国に亡命していました。その父・高弘の死後、大内輝弘は父の宿願であった大内氏の家督簒奪を狙っていました。1566年に出雲国の尼子氏を滅ぼした毛利元就は、1568年には伊予国へと出兵して河野氏を支援し、後方の憂いを断ちました。そして、1569年に大内氏の後継を自認して博多の権益を狙って、大友領であった豊前国・筑前国へと侵攻を開始しました。筑前国に侵入して、博多を守る要衝・立花山城を攻略し、大友宗麟と全面対決となりました。九州へ侵攻した毛利氏は、筑前国の国人らを味方に引き入れました。そのため、大友氏は危機に陥りました。立花山城付近で毛利軍と大友軍による「多々良浜の戦い」が続く中、大友宗麟の軍師・吉岡長増は、毛利氏を九州から撤退させるため策を巡らせて、毛利氏の後方撹乱を狙いました。そして、出雲国へと侵入した尼子勝久・山中鹿之助を支援すると同時に、まだ大内遺臣がいる山口へ大内輝弘を送り込む事を画策しました。大内輝弘は大内氏の復活を狙って、豊後国から若林鎮興が率いる大友水軍に護衛されて周防国へと向かい、吉敷郡の南側、秋穂浦・白松の海岸への上陸に成功しました。大内一族の復帰を知った大内遺臣は、こぞって大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増しました。大内輝弘は陶峠を経て山口へ侵攻しました。一方の毛利方は、平野口を井上就貞が、小郡口を信常元実が守りましたが、数に勝る大内輝弘勢は平野口の井上隊を激戦の末に打ち破り、井上就貞は討死しました。そして、山口支配の拠点・高嶺城の攻略を開始しました。高嶺城の城主・市川経好は九州へ出陣中でしたが、その留守を守る妻・市川局が鎧を身に纏うとわずかな城兵を指揮して鼓舞し、高嶺城に大内輝弘軍を寄せ付けませんでした。高嶺城の攻略を中断した大内輝弘は、龍福寺と築山館に入って次策を練りました。翌日も高嶺城への攻撃を開始しましたが、高嶺城の出城を落とす事が出来ずに戦線は膠着しました。この山口侵攻によって大内縁故の寺院の多くが焼け、宝物が失われました。長門国の赤間関に陣を敷いて指揮を執っていた毛利元就は、急報を受け取ると九州からの撤退を指示しました。吉川元春、福原貞俊らに10000の兵を授け、山口に急行させました。また、石見国津和野の吉見正頼も山口に兵を向かわせ、宮野口で城井小次郎が率いる1000の大内輝弘軍と激戦を繰り広げました。大内輝弘軍への包囲が始まった状況を知った大内遺臣は、次第に離散しました。11月29日、毛利軍主力10000が赤間関から長府へと至り、大内輝弘が山口を支える事が不可能となりました。毛利軍は途中、大内輝弘に味方した輩を徹底的に討伐しながら、大内輝弘軍に迫りました。12月1日に毛利軍は長府を出発して山口に迫りました。12月3日、大内輝弘は残った手勢800を率いて上陸地である秋穂浦へと撤退しましたが、毛利軍による焼き討ち、または大友軍が大内輝弘軍を見殺しにして逃亡した事により軍船が無かったため、東へと向かいました。途中で南方就正が率いる右田ヶ岳城の城兵に攻撃されて敗走しました。その後、三田尻に入りましたが船はなく、やむを得ず浮野峠を越えて富海に入りました。しかし、この先の椿峠には杉元相が手勢を率いて迎撃準備を進めていたため、大内輝弘はこの方面への撤退を諦めて浮野峠の茶臼山に引き返しました。ところが後方に吉川元春が率いる毛利軍主力が迫っていました。大内輝弘は最期の一戦を試みましたが、衆寡敵せずに壊滅しました。こうして、大内輝弘は子・大内武弘と共に自刃して「大内輝弘の乱」は終結、大内氏は完全滅亡しました。毛利軍はこの反乱を鎮圧した後、尼子氏再興に向けて挙兵していた尼子勝久・山中鹿之助らを討つため出雲国へ向かいます。

次に、ナポレオン戦争・第二次対仏大同盟:ホーエンリンデンの戦いです。「第二次対仏大同盟」は、フランスの勢力拡大を脅威と感じたヨーロッパ諸国が、フランスに対抗するために結成した同盟です。1798年、「イタリア遠征」を終えたナポレオン・ボナパルトは、イギリスとインドの連絡を断つべく「エジプト遠征」に乗り出しました。オスマン帝国を相手の陸戦では勝利を重ねましたが、「ナイルの海戦」でフランス艦隊はホレーショ・ネルソンが率いるイギリス艦隊に敗北しました。これによりナポレオンは、エジプトから動く事ができなくなりました。ナポレオンの不在を好機と見た諸国は、「第二次対仏大同盟」を結成し、フランスへの攻撃を開始しました。「第二次対仏大同盟」に参加した国は、オーストリア、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス)、ロシア帝国、オスマン帝国でした。1799年、北イタリアではオーストリア軍の攻勢にフランス軍が押されていました。ロシアの元帥・スヴォーロフの加入によってフランス軍はさらに劣勢に立たされ、イタリア方面軍司令官・モローはジェノヴァまで後退しました。ライン方面ではカール大公が率いるオーストリア軍と、ライン方面軍司令官・ジュールダンが率いるフランス軍が衝突した「シュトックアッハの戦い」で、オーストリア軍が勝利しました。ジュールダンは解任され、マッセナが新司令官となりました。これ以降、ラインでは対峙が続きます。スイス(ヘルヴェティア共和国)ではロシア・オーストリア同盟軍とフランス軍が一進一退の攻防を続けていました。9月25日、マッセナは「第二次チューリッヒの戦い」で同盟軍を破り、ロシア軍をスイスから退却させました。ロシアは翌年にはフランスと和平を結び、同盟から脱落しました。この年の末、ナポレオンはエジプトからフランスへ帰還し、「ブリュメール18日のクーデター」によって第一執政となり政権を握りました。ナポレオンはフランス軍を再編し、翌年の攻勢に備えました。1800年、ナポレオンはジュネーヴに軍を集結しました。3万7000を率いてグラン・サン・ベルナール峠を越え、北イタリアへ進出しました(ダヴィッド作「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」はこの時の情景を描いたものです)。その頃、オーストリア軍はジェノヴァに籠城するマッセナ指揮下のフランス軍部隊を攻囲中でした。ナポレオンはオーストリア軍の背後に出てミラノとパヴィアを占領しました。しかし、ジェノヴァのフランス軍部隊は限界に達し6月4日に開城し、オーストリア軍主力はトリノに集結しました。フランス軍によって退路を遮断される形となったオーストリア軍司令官・メラスは東進を決意しました。6月14日、両軍はアレッサンドリア近郊のマレンゴにおいて遭遇戦となりました。この「マレンゴの戦い」でフランス軍は窮地に追い込まれますが、ドゼーの別働隊が増援に駆けつけて逆襲に成功しました。しかし勝利と引き換えにドゼーは命を落としました。ライン方面でも、イタリア方面軍司令官からライン方面軍司令官となっていたモローが、6月19日の「ホッホシュタットの戦い」でオーストリア軍に勝利し、7月にはミュンヘンまで迫る勢いを見せました。フランスとオーストリアは7月15日に休戦に入りました。この間に講和の話し合いがもたれましたが、交渉は不成立に終わりました。11月13日に休戦期限が切れるとともに、再び両軍は戦闘を開始しました。モローは攻撃を再開し、12月3日、「ホーエンリンデンの戦い」でオーストリア軍に決定的な打撃を与えました。ここに至ってオーストリアは継戦意欲を喪失し、講和に向けて話し合いが開始され、「リュネヴィルの和約」が締結されます。オーストリアは、イタリアとネーデルラントに建国されたフランスの衛星国を承認し、フランスのラインラント領有を認めました。この時点で「第二次対仏大同盟」は崩壊し、イギリスのみが交戦を続ける事となりました。

その次に、蛮社の獄:高野長英自害です。高野長英は、江戸時代後期の医者・蘭学者です。仙台藩の一門・水沢伊達氏家臣・後藤実慶の子として生まれました。1820年、長崎に留学してシーボルトの「鳴滝塾」で医学・蘭学を学び、塾頭となりました。1828年、「シーボルト事件」が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子が捕らえられて厳しい詮議を受けましたが、高野長英は逃れました。1830年、江戸に戻って麹町で町医者として蘭学塾を開業しました。まもなく田原藩重役・渡辺崋山と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たりました。日本で初めて、ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る西洋哲学史を要約しました。1832年、紀州藩儒官・遠藤勝助の主宰する「天保の大飢饉」の対策会である「尚歯会」に入り、渡辺崋山や藤田東湖らとともに中心的役割を担いました。1837年、「異国船打払令」に基づいてアメリカ船籍の商船「モリソン号」が打ち払われる「モリソン号事件」が起きました。この時、高野長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べ、渡辺崋山らとともに幕府の対応を批判しました。高野長英はそうした意見をまとめた「戊戌夢物語」を著しました。そして、1839年に「蛮社の獄」が勃発しました。高野長英も幕政批判で捕らえられ、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監されました。牢内では服役者の医療に努め、劣悪な牢内環境の改善などを訴えました。これらの行動により、牢名主として祭り上げられました。この時、獄中記に「わすれがたみ」を著しました。その後、1844年に牢屋敷の火災に乗じて脱獄しました。この火災は、高野長英が牢で働いていた非人・栄蔵に放火させたものでした。脱獄の際、三日以内に戻って来れば罪一等減じるが、戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けました。しかし、高野長英はこれを無視し、再び牢に戻って来る事はありませんでした。硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続けました。一時、江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行いましたが、春山が急死しました。その後、「鳴滝塾」時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主・伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書や蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事しました。主な半翻訳本に「砲家必読」11冊があります。このとき彼が築いた久良砲台は、当時としては最高の技術を結集したものでした。しかし、この生活も長く続かず、しばらくして江戸に戻ると、沢三伯の偽名を使って町医者を開業しました。医者になれば人と対面する機会が多くなるため、硝酸で顔を焼いて人相を変えていました。1850年12月3日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれました。高野長英は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害しました。

その次の次に、中根長十郎暗殺です。中根長十郎は、一橋家の家臣です。一橋慶喜(後の徳川慶喜)の側用人兼番頭(腹心)として(一橋家家老・平岡円四郎らと共に重用されました。1863年12月3日、将軍後見職・一橋慶喜の発駕を3日後に控えたこの日、攘夷決行に踏み切れない一橋慶喜のため、尊攘派に江戸雉子橋門外で暗殺されました。一橋慶喜は当時、攘夷論者とみられていました。「攘夷」が進まないのは開国派の側近・平岡円四郎の仕業だと思われていました。攘夷浪士が平岡円四郎に面会・詰問後、中根長十郎に責任転嫁しました。中根長十郎は浪士の面会・詰問に応じませんでした。このため、中根長十郎に災いが及んだのでした。犯人は水戸浪士だと言われています。この後も徳川慶喜は、中根長十郎に続き、平岡円四郎、原市之進と言う有能な家臣を非業のうちに失う事になります。

そのまた次に、香川県が発足し、47都道府県体制が確定です。江戸時代の讃岐国は、高松藩、丸亀藩、多度津藩の3藩と、江戸幕府の直轄地である天領・津山藩の飛地が分立していました。1871年8月29日の「廃藩置県」により、高松藩は高松県、丸亀藩は丸亀県、多度津藩と天領は倉敷県、津山藩の飛地はそのまま津山県となりました。その直後に、倉敷県の管轄地が丸亀県へと移された後に、高松県と丸亀県が合併して「香川県」が設置されました。1872年に小豆島西部を編入して、現在の「香川県」と同じ管轄範囲となりました。しかし、1873年2月20日に名東県(現徳島県)に編入されましたが、2年後の1875年9月5日に「香川県」として再設置されました。翌1876年8月21日には「愛媛県」に編入されました。編入の度に、地理的要因、異なる地域文化、住民意識の不一致などによって、「香川県」として単独の県の設置を望む声が高まり、12年後の1888年12月3日に「香川県」が復活して、現在に至ります。この「香川県」の設置を最後に、新しい都道府県の設置はなく、現在の「47都道府県体制」が確定しました。「香川県」の名称は、高松市が所属していた香川郡から取り、郡名を県名にしたものです。

最後に、プレイステーション発売です。PlayStation(プレイステーション)は、1994年12月3日に株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメント (SCE)より発売された家庭用ゲーム機です。仕事で使うコンピュータを「ワークステーション」と呼ぶ事に対して、遊びで使うコンピュータという意味で「プレイステーション」に決めたというのが名前の由来です。ソフトウェア媒体として採用したCD−ROMは、従来の家庭用テレビゲームで用いられていたROMカートリッジと比較して、データへのアクセス速度が劣るが(ローディング時間が生ずる)、大容量、低価格、量産時間の短縮といった利点があり、コンピュータゲームの表現方法から流通にまで幅広く影響を与えました。同時期に発売された株式会社セガの「セガサターン」や、任天堂株式会社が発売した「NINTENDO64」と市場競争を繰り広げ、最終的に主導権を握りました。結果として本機の成功で、初めて任天堂独占状態を崩すライバルメーカーとしての快挙を成し遂げました。SCEはゲーム機の世代にして2世代、年数にして10年以上の間、覇権を取りました。スーパーファミコン時代に1万円近くしていたソフトの価格を、CD-ROM採用によるソフト生産のコストダウンと流通改革により5800円と低価格化しました。「いくぜ100万台」などのキャッチフレーズを活用し、多数のゲームソフトの体験版を収録した2種類の体験版を一部の店舗にて100万枚無料配布するなど、派手な広告展開を行いました。その後、日本を代表するRPGシリーズ「ファイナルファンタジー」、「ドラゴンクエスト」がPlayStation陣営に移行し、寡占市場を作り上げる起爆剤となりました。PlayStationの絶頂期は1996年〜1999年で、本体の日本国内出荷台数が1000万台を突破しました。2000年3月4日には後継機であるPlayStation2が発売されました。

今日の誕生日:阿部正弘、小松帯刀、永井荷風、種田山頭火、東久邇宮稔彦王(第43代内閣総理大臣)、池田勇人(第58・59・60代内閣総理大臣)、金大中(第15代韓国大統領)、川淵三郎、篠山紀信、今いくよ(今いくよ・くるよ)、岡崎徹、イルカ、長州力、パンチ佐藤、古田新太、藤井貴彦、高岡早紀、壇蜜、ALEXANDER、川谷絵音(ゲスの極み乙女。)、京本大我(ジャニーズJr.)、入山杏奈(AKB48)、西門総二郎

今日の記念日:国際障害者デー、カレンダーの日、奇術の日、妻の日、みかんの日、 個人タクシーの日、着うたの日、プレママの日

今日の「今日訓」:本日は、太陽暦が採用された日です。それに伴って、旧暦明治5年12月3日が明治6年(1873年)1月1日となりました。これを記念して「カレンダーの日」となりました。1959年12月3日に、173名の個人タクシー第一次免許者が誕生した事で「 個人タクシーの日」、1982年に「障害者に関する世界行動計画」が国連総会で採択された事で「国際障害者デー」、2002年12月3日に「着うた」の配信を、世界で初めてスタートさせた事で「着うたの日」、奇術を行う際の掛け声「ワン、ツー、スリー」に因んで「奇術の日」、1年の最後の月である12月と感謝を表す「サン(3)クス」の語呂合わせで、1年間の妻の労をねぎらう日「妻の日」、「いい(1)にんぷ(2)さん(3)」の語呂合わせで「プレママの日」、「い(1)つも(2)みかん(3)」の語呂合わせで「みかんの日」となりました。
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