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2016年11月26日16:23

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劉備なぜ後見人の問題で諸葛亮を選んだのか

それは諸葛亮が益州の士人と関係を持ってなかったからだ。劉備が嘘で益州を取ったし、あとで当地で略奪を繰り返してた、したがって当地の士人階級との関係も最悪だった。前の劉焉と劉璋も荊州出身だったから、張松や法正みたいな地元士人は彼ら親子を消そうと劉備に主を売ったわけだ。劉備だって同じ、略奪、称帝などなどしておいて、武力で弾圧してただけ。劉焉の時代の益州はまだまったりだった。歴史は燃えと違う。

そして次の張松や法正が出ないように、地元関係を持たない諸葛亮を選んだわけだ。もう一つの要職、尚書令の李厳も荊州出身だったね(あとで諸葛亮たちにやられた)、しかし四川に入ったのは劉備たちより早かったから、多少地元の士人と付き合いがあった。つまり、諸葛亮が劉禅を持ち出す以外なにもできなかった、叛乱してもあとで地元の士人にやられるだけ。そして諸葛亮の<出師表>に並べられた費、董、郭などは全て諸葛亮の子分だった。益州の士人が完全に政権から排除されたってこと。利益の代弁もなく、地元の士人はもちろん協力しなかった。

だから劉禅の政権も地元の士人との関係が悪く、北伐も曹丕が死んだあとからはじめたわけだ。地元の士人の支持なしで、彼ら力を借りれなかったから、民衆を動かすことも無理だった。北伐もションベンみたいな力しかなかったという。実際曹真にフルボッコされてた。10万人の兵士の一年の兵糧も確保できなかったし。成都から陳倉までどのくらいの距離あるんだろう、人手で兵糧の運送するとか。しかも短期戦で戦わずに会戦を強請るとか、諸葛亮が勝てないことだ。司馬懿になってから、そもそも座ってるだけでも勝てるほうだったから、わざわざ会戦するとでも??

それが北伐の現実だった。勝者は勝ってから戦う、敗者は戦ってから勝機を見つけようとする。<三国誌演義>に書かれた諸葛亮のイメージは嘘だった。諸葛亮自身も勝てないことぐらいわかってたはず、なにもしないやつじゃないってアピールしたかっただけかも。そして諸葛亮が死んで、姜維がすぐ漢中で屯田を始めた。諸葛亮はなにもできないことを明言してたようなもんだ。そして司馬昭も徹底的に蜀国を潰すことを考えはじめたわけだ。姜維がわざと最高の障壁である陽平関を放棄して、鐘会にフルボッコされた、そして蜀国滅亡。





日本ではなぜ三国志が人気で、諸葛亮孔明が人気を得ているのか=中国

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