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2016年11月20日12:00

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幻の田園都市

久しぶりに地元ネタを。


わが地元に戦前「渡辺町」(日暮里渡辺町)という町がありました。その渡辺町の由来は大財閥渡辺財閥(当時、日本で五番目に力のあった財閥)が開発してつけられた名前です。

江戸時代は秋田佐竹藩抱え屋敷があり「衆楽園」という山荘などがあったが、明治時代になると笹や孟宗竹などが生え「佐竹っ原」と呼ばれるようになっていた。

そんな土地を大正五年(1916年)に渡辺財閥のトップである二十七銀行(渡辺銀行)の頭取である渡辺治右衛門が宅地開発を行った。

最初は正式名称ではなかったのですが、昭和7年(1932)に正式に日暮里渡辺町となった。(昭和9年(1934)、日暮里九丁目
に併合されている。)


600坪を有すこの渡辺町はひぐらし公園を有し、上下水道・ガス・電話を完
備した当時としては最先端の理想都市となった。

更に多くの文化人が渡辺町に移り住み野上弥生子、石井柏亭などの芸術家や文人が住んでいた。


その後、渡辺町は昭和2年(1927)の昭和恐慌で渡辺氏の手から離れてしまい、戦災で見る影もなく風景が変わってしまった。



しかし、区画を見ると当時の面影を想像する事ができるのではないだろうか?



そして、他の田園都市に漏れずに近くに映画撮影所がある。
それが、天活撮影所だ。1914年(大正3年)3月17日、東京の小林喜三郎の「常盤商会」と大阪の山川吉太郎の「東洋商会」が協力して東京・日暮里にある東洋商会の「東京日暮里撮影所」創設。「天然色活動写真日暮里撮影所」(北豊島郡日暮里町元金杉638番)とし、元福宝堂の映画監督吉野二郎を日暮里撮影所長、東洋商会のカメラマン枝正義郎を撮影部長とした。設立1か月足らずの4月3日、吉野が監督し枝正が撮影した設立第一作『義経千本桜』を公開している。1919年末までのわずか5年で、「所長監督」と「技術部長撮影技師」とのタッグで同社で90本近い映画を撮った。




ちなみに渡辺治右衛門氏のその後をコピペします。

>9代目渡邊治右衛門の二男源次郎が10代渡邊治右衛門を継ぐ、大正12年(1923年)の関東大震災により経営悪化、昭和2年(1927年)に東京渡辺銀行は破綻する。昭和5年(1930年)1月4日10代目の死去により、渡邊家は財産を放棄した。




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江戸時代の佐竹抱え屋敷

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昭和7年日暮里渡辺町

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昭和22年日暮里9丁目
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