言葉を現実に具体的におこっている事件といわば同等の重さとみなすような、言葉に対する観念なしには、文学が言葉の芸術として自己主張していく根拠がどうしてもかんがえられません。
言葉が示す意味の重さあるいは価値の重さっていうものを現実社会におこってくるいろいろな事件の重さ、あるいは極限状況でおこってくる事件の重さと、同じような重さでもって考えていくことが必須の条件である。
自分の判断力、それから自分自身の理解力っていうようなものを、どうしてもつかまえるだけの辛抱強さというものと努力はやめてはいけないんだとおもうんです。
芸術とか文学に組織はいらないんです。ただ共同性というのは要るんです。共同性の場なしに秀れた詩人が出てくるわけはないということはいえるので、そういう意味では強固な
創造性が、逃げ口上や逃げ腰ということではなしに、情況について冷静に判断し、言葉を現実の具体性と同じ重さで、いつでもこの場にいる限りは使えるというような場がくずれさらないということが、これからきつくなっていく、(ぼくにはそう思われますが)情況に対して真にすぐれた詩人が何人かでも出てくるかどうかの最大のポイントになるような気がいたします。(吉本隆明「詩のゆくえ」『現代詩手帳5』1972.5.1思潮社)
注)1972.3.25 第2回高見順賞受賞記念講演会の速記による。
メモ
探しものをしていたらこれがでてきたので、書いてしまいました。
20代になった頃、うーん、このころがいちばんものをかんがえようとしていたのかもしれないなぁ。右も左もわからなくて・・・。
傍線があるところを書き抜いてみた。
結局、このことのほんとうの意味がわかるために半世紀ちかくの経験を必要としたのかもしれない・・・。いやぁ、ほんとうはまだわかっていないかもしれないけれどねぇ・・・。
前橋も街路樹が紅葉し、落葉もしはじめています。
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