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2016年11月01日23:17

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真の速球投手は誰だ!? 球速ではなく球威、独善的速球投手論

真の速球投手は誰だ!? 球速ではなく球威、独善的速球投手論

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スピードガンの球速と、ボールの威力は別物だ。いくら速くても打たれてしまう投手を速球投手とは言わない。高めにグ〜ンと来て、9回でもスピードが落ちない、そして打者に“絶好球”と錯覚させる球で空振りを取る――この本物の速球投手たちを独断と偏見付きで紹介する。
文=大内隆雄



◆大谷は「本物の速球投手ではない」

交流戦の初戦で北海道日本ハム・大谷翔平は5回0/3で5失点のKOとなったが(5月20日の対中日戦、札幌ドーム)、5回までの好投がウソのように4安打を集中され、2四球と制球も乱れた。この6回、直球のスピードは依然150キロ台をマークしていたが、155キロを森野将彦に完璧にミートされレフトフェンス直撃の二塁打を浴びた。なまじボールが速いから、まるで右打者が引っ張ったような打球になってしまう。


筆者は、これで大谷は「まだ本物の速球投手ではない」という、結論を出した。自分流の基準に照らしてではあるが。

 筆者の基準で述べる前に、155キロをいとも簡単にフェンス直撃の打球にされてしまうのだから、スピードガンの数字は「球速」ではあっても、「球威」ではないことを言っておきたい。球速はあっても球威がなくて消えていった投手は過去にヤマほどいる。ここが速球投手を判断する際の最大の難所なのだ。

 さて筆者の基準のその(1)は、ひたすら高めで勝負して、低めの球は使わない(使えない?)。その(2)は、9回になっても球威が衰えない(球速ではない)。その(3)は、打者が「絶好球!」と思って振っても、ボールはバットの上をいく、これらである。

 大谷は6回でバテたのだから、(2)に該当しない。まあ、経験を積み、体力がつけば、この(2)は克服できるかもしれないが、(1)と(3)には残念ながら初めから縁がないようだ。低めに落ちるスライダーを使わないと大谷のピッチングは組み立てられないし、森野をあの球速で空振りさせられなかったのだから。

 レンジャーズのダルビッシュは大投手だが、筆者は速球投手だとは思わない。いろんなボールをいろんなコース、高さに投げ分けて、フランス料理のような複雑な味わいをピッチングにもたらす、これがダルビッシュのピッチングだ。

 筆者の言う速球投手とは、これはもう味もへったくれもない、「さあ食え!」とファンの前にド〜ンと1キロのステーキを突き出すようなものだ。しかも、かなり硬そうだ。硬くて噛めないからロクに味わうこともできない。しかし、これほどボリュームたっぷりで歯ごたえ十分な食い物も他にない。とにかく速球投手というのは、「打てるなら打ってみろ!」の乱暴さがないと面白くないのである。


◆一番速かったと言われる山口高志氏

 筆者のイチオシは、(1)(2)(3)を完璧なまでに備えた山口高志氏(元阪急、現阪神コーチ)である。

 筆者はこのところ、昭和40年代から50年代にかけて活躍した大選手たちに話を聞いて回るのが仕事になっているが、「誰が一番速かったか」という話になると必ず山口氏の名が挙がる。『週刊ベースボール』での連載企画「“レジェンド”たちに聞け!」で門田博光氏(元南海ほか)が山口氏を語っていたし、山田久志氏(元阪急)が「高志は9回から速くなるんだからビックリしますよ」と語っている。

 この「9回から……」に関しては、何度か書いたことがあるが、また繰り返すと、山口氏は関西大2年時に大学選手権に出場したが、準決勝で法政大と対戦、延長20回を完投するという人間離れしたピッチングを見せた(試合は3対2で関西大学が勝利)。この時の山口氏が、まさにそれだった。多分、速くなったというよりは、最高スピードを9回にも維持できた(球速だけではなく、もちろん球威も)、ということなのだろう。維持できれば、「9回には疲れが出るもの」という目で見ている観客には「速くなってる!」と見えるのだろう。

 法政大の主力打者で、のちプロで首位打者になる(82年、当時大洋)長崎慶一氏(当時啓二、元大洋ほか)は「速すぎて打てっこないからヤケクソで目をつぶって振ったら、最高のタイミングでバットに当たった。さて、どうなったでしょう? バットは真っぷたつ。打球はふらふらとレフトへ(長崎氏は左打者)、ですよ」と筆者に語ったことがある。実際の話、山口氏のボールとはそういうボールだった。


◆高田繁氏、山口氏は「江夏より速かった」

 本塁打王にもなった(75年、当時太平洋)土井正博氏(元近鉄ほか)も「とにかく高めが速かった。そこだ、と思って振っても、当たらんのです。ああいう球は初めて。いいところへ来た、と何度もだまされてしまう」と語っている。

 山口氏はとにかく「さあ食え!」のストレート一本やり。オリックス・コーチ時代の山口氏を“パンチ”佐藤和弘氏が、こんなふうに表現したことがある。「山口さんの指導は単純明快だったなあ。困ったときの真っすぐやろ、こればっかりでした(笑)」。そりゃそうだろう。真っすぐしか投げない投手なのだから。変化球と言えば、タテにちょっと曲がるカーブだけ。ただ、指のかかり具合で、速球が、カットボール気味になることがあった。150キロのカッター! まるで元ヤンキースのリベラ並みである。まあ、かつての山口氏のボールをいまの野球ファンに見せてやりたいものである。

 山口氏が一番速いと言ったのは他に高田繁氏(現横浜DeNA・GM)、山本浩二氏(元広島)。高田氏は「江夏(豊氏、元阪神ほか)より速かった」と言った。両者とも日本シリーズでの数試合の体験が主だから、余計に印象が強かったのだろう。山口氏のボールを受けた捕手の河村健一郎氏は「捕るのが怖かった投手は山口だけだった」と語っている。

 球審では、元パ・リーグ審判部長の村田康一氏が「山口が一番速かった」と証言しているが、いろんな速球投手を見てきた球審のひと言だけに説得力がある。

 とまあ、山口高志氏だけで、かなりの行数を食ってしまったが、個人的な印象を超えてしまう“ド速球男”なのだからあえて紹介した。


◆荒れ球シュートを操った森安敏明氏

 速球男の中でも「打てるなら、打ってみろ!」の乱暴さが魅力になっていた投手は、森安敏明氏(元東映)だ。対戦した打者たちは「一番速いかどうかは分からないが、一番怖かったのは確か」と口をそろえる。

 筆者は、速さも山口氏に近いものがあったと思う。そのボールが顔のあたりを襲うのだから、これはたまったものではない。有藤通世氏(元ロッテ)が「(森安は)ピッチングより、ぶつけるコントロールの方が良かった」と苦笑していたが、明らかに報復と疑われても仕方がない投球もあったが、荒れ球の超スピード・シュートがほとんどだったから、ちょっと手元が狂ったら大ごとになってしまう危険があった。

 ただし、打者ではなく森安氏本人にとって大ごとになってしまうことがしばしばだった。右打者にとって、ヒザ元に食い込むのではなく、外から真ん中に曲がってくる投げそこないのシュートほど“おいしいもの”はないからである。プロ初登板が完封だった(66年4月13日、南海戦で1対0)が、南海の打者は恐ろしくて腰が引けっぱなしだったのだろう。

 しかし、慣れられると、甘くなったシュートをポンポンホームランされ、69年にはホームラン配給王(34本)。四球王も2度。それでも、どこに来るか分からない超荒れ球(68年の22死球はプロ野球最多記録)の持ち主が66〜70年の5シーズンで242試合(“黒い霧事件”で永久失格選手となった70年は14試合)も投げることができたのは、球速とともに「球威」があったからである。森安氏も筆者の好きな「どうだ、食え!」の投手である。


◆江夏氏は初速と終速に差がなかった

 山口、森安の両氏のほかに、筆者の目で見て「速い!」と感じたのは、平松政次氏(元大洋)。平松氏は「カミソリシュート」を話題にされても、そのスピードはほとんど話題にされないが、とにかく速かった。長嶋茂雄氏(元巨人)が、1割台に抑えられたのは、シュートを嫌がったこともあるが、やっぱり速さに負けたのである。

 その長嶋氏が「一番速かった」と言うのが松岡弘氏(元ヤクルト)。この人の速球はズド〜ンと来る感じだったが、後楽園で堀内恒夫氏(元巨人)と投げ合った試合を鮮明に覚えている。何がそんなに鮮明だったのかと言えば「松岡と投げると堀内が遅く見える!」という、新鮮な“発見”があったからである。この記憶が鮮明なのだ。


 江夏豊氏(元阪神ほか)がなかなか登場しないので不満の読者がいるかもしれないが、筆者は、そう速いとは思わなかった。ただし、これは目の印象であって、当時スピードガンがあれば、相当の数字をたたき出したかもしれない。

 ある人が「江夏のボールはグラウンドと平行に、グングン、グングンやってくる感じ」と表現したが、低めのストレートに球威があり、しかも、初速と終速に差がないということの表現なのだろう。

 もっとも王貞治氏(元巨人)は、江夏氏の頭あたりの高さのストレートをよく振らされていた。その球に手を出さざるを得ない状況を作る江夏氏の天才的投球術のなせるワザだった。

“神話時代”のプロ野球で速かった四天王は沢村栄治氏(元巨人)、スタルヒン氏(元巨人ほか)、野口二郎氏(元東京セネタースほか)、藤本英雄氏(元巨人ほか)ということになっているのだが、何度も使い回ししているが、「スパーンが沢村でズドーンがスタルヒン」という千葉茂氏(元巨人)の証言からすると、沢村氏、スタルヒン氏はたしかに速かったようだ。

 ただ、この方々は実際に見ていないので筆者の(1)(2)(3)にどう当てはまるのか、当てはまらないのか、これは何とも言えない。ただ、どの投手も「9回から速くなる」タイプだったとは言えそうだ。沢村氏は延長17回を投げ、スタルヒン氏はシーズン42勝、野口氏は延長28回を投げ、藤本氏はシーズン19完封。数字も神話的である。


◆「メジャーには打ちごろ」金田氏、日米野球で打たれた

 310勝をマークした別所毅彦氏(元巨人)も、テレビでしか見ることができなかったが、スタミナは抜群でも(1947年に47完投)、驚くほど速くはなかったという。先の千葉茂氏も「ベー(別所)の球は、わしづかみだったのか、ストレートがベースあたりでスッと落ちるんやな。これが案外効果的だった」と言っているからグ〜ンと来るストレートではなかったようだ。

 その別所に「だれが一番速かったか?」と聞いたら、間髪を入れず「金田(正一、元国鉄ほか)に決まっとるよ。いや、ホンマに速かった」という答えが返ってきたことがある。

 この400勝投手・金田氏も、筆者は、晩年の巨人時代しか知らないので残念である。金田氏が初めてオールスターに登場した51年(これが第1回オールスター)の映像(後楽園の一塁側スタンド上部から撮影したもの)を見たことがあるが、金田氏のボールが前に飛ばないのでパ・リーグの打者が苦笑しているのが印象に残っているが、つまり、フルスイングしているのだが、ファウルにしかならないのだ。その速球は、やはり、高めにグ〜ンと来るボールだったようだ。

 ただ、金田氏は日米野球になると「抑えたる!」と力むのか、よく打たれた。米国チームも“日本一の投手”という評判を知っていたから「カネダをやっつけろ!」と真剣勝負で向かってきた。53年のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では0勝2敗、防御率は9.78。19回1/3で21失点なのだから、コテンパンと言ってよい。55年のニューヨーク・ヤンキース戦では防御率は6.75と少しよくなったが、0勝2敗。被本塁打4は最多タイ。「メジャーには打ちごろのスピード」と言ってしまっては金田氏には気の毒だが、メジャーも脱帽するスピードではなかったようだ。


◆中西氏、豊田氏「宅和の球は速かった」

 最近「1度見てみたかった」と思う投手が現れた。それは宅和本司氏(元南海ほか)。54年に新人で最多勝、翌55年も最多勝。これは61、62年の権藤博氏(元中日)の“先輩”だ。3年目からガクッと落ちたのも先輩。この宅和氏の速球がすごかったらしい。なにしろ西鉄黄金時代の両雄、中西太氏、豊田泰光氏が口をそろえて「宅和の球は速かった」というのだ。

 西鉄初Vの54年、宅和氏は西鉄戦に7勝1敗。南海10勝中の7勝だからすごい。55年は5勝4敗と研究されたが、それでも勝ち越し。54年、南海はわずか0.5ゲーム差で優勝を逃すが、18連勝の日本最高記録で、西鉄をあと一歩のところまで追い込んだ。この18勝の3分の1の6勝を宅和氏が稼いでいる。西鉄戦は3勝無敗。これでは中西も豊田も「参った」となるワケだ。寿命が短かった。56年に6勝すると4年目からはまったく勝てなかった(プロ在籍は61年まで)。一体、どんなボールだったのだろう?

 宅和の“後輩”権藤氏は、『週刊ベースボール』での連載企画「“レジェンド”たちに聞け!」で149キロという数字を披露してくれた。恐らくコンスタントにこの前後のスピードボールを投げていたのだろう。61、62年の権藤氏を生で見ている人は、まだ健在だろうから、その印象を教えてほしいものだ。


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