mixiユーザー(id:48382454)

2016年10月21日01:05

229 view

10月21日の日記

今日の出来事:1561年−藤波畷の戦い、1585年−第一次上田合戦、1600年−関ヶ原の戦い:関ヶ原本戦、大津城の戦い、1805年−ナポレオン戦争:トラファルガーの海戦、1882年−東京専門学校(現・早稲田大学)が設立

今日は、藤波畷の戦いです。藤波畷の戦いは、1561年10月21日に行われた吉良氏の居城・東条城をめぐる吉良氏と松平元康(後の徳川家康)の攻防戦です。「桶狭間の戦い」で今川義元の死により、その束縛を離れた松平元康が、吉良領の東条城を攻めました。しかし、東条城は容易に陥落しませんでした。松平元康は、津平に松井忠次、小牧に本多広孝、糟塚に小笠原長茲を配置し、それぞれ砦を構築させて東条城包囲網を作りました。しかし、室城の城主で吉良家家老・富永忠元は、吉良勢を引率して奮戦しました。「善明堤の戦い」では松平好景を失い、中島城を奪回されるなど甚大な損害を受けました。その後も、松平勢は毎回敗北しました。そのため、本多広孝は富永忠元を必ず討ち取ると固く決心しました。そして、1561年10月21日に本多広孝、松井忠次は砦より出陣して東条城を目指し、藤波畷に進みました。この時、本多広孝は決意の印として自分の鎧の上帯の結んだ端を、再び解けないように松井忠次麾下の士・平岩元重に切らせました。本多広孝が先鋒で先駆けし、松井忠次の弟・松井光次が後詰めで進撃しました。松平軍が砦を出るのを目撃した富永忠元は、いつもの如く先駆けしましたが、単騎で突出したため孤立しました。これに松平軍が殺到し、逃げる富永忠元を藤波畷に追い詰めました。松平方の大久保大八郎、鳥居半六郎が追いついて戦いを挑みましたが、富永忠元に斬られました。しかし、富永忠元はここで体力が尽き、本多広孝の槍の前に突き伏せられました。本多広孝の家来・本多甚十郎が首級を挙げました。松平元康は、富永忠元を討ち取った本多広孝を大いに褒めて、論功に富永忠元の所領を与えました。富永忠元を失った吉良義昭は戦意を失い、東条城を明け渡して降伏しました。富永忠元は、その勇名が敵・味方に知れ渡っていたため、その死は大変惜しまれました。そのため、本多広孝は藤波畷に彼を供養するための塚を築きました。これは後に、富永忠元の通称により「伴五郎塚」と呼ばれました。現在は、塚ではなく「伴五郎地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像が戦死地に伝わり、古戦場跡の道脇には新しく「史跡藤波畷古戦場」の石製標柱が建てられています。富永忠元の死後、富永氏は叔父・資広が松平元康に降参して家臣となり、東条松平家に付属しました。富永資広は沼津城主時代の松平忠吉にも歴仕し、子孫は後の尾張徳川家家臣団で甚太郎衆(旧東条吉良・東条松平家臣出身の家臣)に数えられました。

次に、第一次上田合戦です。上田は東信濃の小県郡にあります。この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域でしたが、真田昌幸が武田氏の下で上野国の沼田を平定後、徳川氏の下で小県郡を平定し、上田城を築城しました。織田信長の「武田征伐」により武田氏が滅亡後、甲斐から信濃、上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従しました。織田信長が「本能寺の変」で討たれると、北条氏直が率いる5万6000の兵で上野に侵攻し、織田家臣・滝川一益が率いる2万を「神流川の戦い」で撃破し、滝川一益は本拠地・伊勢まで敗走しました。甲斐の織田家臣・河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可が旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へ撤退すると、信濃、甲斐、上野が空白状態となりました。そこへ越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る「天正壬午の乱」が起こりました。甲斐を制圧した徳川家康は南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻しました。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属しましたが、徳川家康が東信濃に侵攻してくると徳川方に寝返りました。徳川・北条の間で和睦が成立すると、和睦条件として真田氏の上野沼田領と北条氏の信濃佐久郡を交換する事となりました。家康が甲斐へ着陣して沼田領の引き渡しを求めましたが、真田昌幸は徳川氏から与えられた領地ではない事を理由に拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じました。このため、浜松に帰還した家康は真田討伐軍を起こし、家臣・鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣しました。徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開しました。これに対して真田方は約1200人で、真田昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の砥石城に籠城しました。また支城の矢沢城には、真田昌幸の従兄弟・矢沢頼康が上杉の援兵と共に籠城しました。上田城に攻め寄せた徳川軍は二の丸まで進みましたが、ここで反撃を受けて撃退されました。更に後退の際、真田軍に追撃を受けました。砥石城の真田信幸に横合いから攻められると壊乱し、さらに矢沢頼康軍も加わったため、神川で多数の将兵が溺死しました。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出しました。一方、真田軍の犠牲は40人ほどでした。この後、徳川軍は小豪族で真田氏に味方した丸子氏の籠もる丸子城を攻めますが、ここも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できずに20日間対陣を続ける事になります。この間に上杉軍援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令しました。これを受けて徳川軍は上田より撤退しました。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まって真田勢と小競り合いを繰り返しますが、譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔する事態になり、完全撤退する事になります。この戦いで真田昌幸は優れた智将と評される事となりました。この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価が高まり、本多忠勝の娘・小松姫を真田信幸へ嫁がせて懐柔する事になります。この「上田合戦」に連動して、沼田城に北条氏が攻撃を仕掛けていましたが、真田昌幸の叔父である城代・矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退しました。

その次に、関ヶ原の戦い:関ヶ原本戦、大津城の戦いです。
大津城の戦い:石田三成は徳川家康が「会津征伐」に赴いた事を好機として、大谷吉継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵しました。そして、家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城を落とし、次いで北陸や伊勢方面の平定に乗り出していました。北陸方面の平定は、越前敦賀の大谷吉継が担当する事となりました。この北陸方面軍の一員として、近江大津城の城主・京極高次が加わっていました。ところが京極高次は、大谷吉継が北陸から美濃へと転進する最中に東軍に寝返りました。手勢3000名を率いて大津城に籠城し、防備を固め始めました。この出来事に大坂城の淀殿は驚き、城中にあった京極高次の正室・初(淀殿の妹)に使者を遣わして停戦・降伏を求めましたが、拒否しました。これに対して西軍側は京極高次の裏切りに対する報復として、毛利元康を大将とし、立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名を中心とした総勢1万5000人の軍勢で大津城を包囲し、攻撃を開始しました。しかし、京極高次は城を死守しました。特に、赤尾伊豆守・山田大炊の活躍はめざましく、精兵500を率いて城外の大軍へ討って出て、暴れ回りました。攻めあぐねた西軍は、大砲を城内に撃ち込みました。砲弾は天守にも命中し、城内は大混乱となりました。京極高次も必死に防戦しましたが、立花宗茂軍の先鋒大将・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付きました。京極高次をはじめとする京極勢は奮戦しましたが、遂に力尽きて降伏し、大津城を開城しました。京極高次は一命を助けられ、高野山に上って出家する事となりました。なお、京極高次の正室・初は自身3度目の落城(浅井長政の小谷城、柴田勝家の北ノ庄城、京極高次の大津城)を経験する事になりました。この「大津城の戦い」は西軍の勝利となりましたが、実は西軍の敗北につながる事になります。大津城が開城したこの日は、「関ヶ原本戦」当日だったのです。西軍は、1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦う事になったのです。徳川家康が恐れていた立花宗茂が「関ヶ原本戦」に参加できなかった事は、西軍にとっては不運でした。もし、立花宗茂が1万を超える大軍と共に参加できていたら、勝敗は変わっていたと言われています。敗軍の将である京極高次に対して徳川家康は、「関ヶ原合戦」後に高次の弟・京極高知を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけでなく、若狭一国・9万2000石を与えて功に報いました。家康は、立花宗茂を大津城に引き付けた事を大いに賞賛しました。
関ヶ原本戦:石田三成は大坂城の豊臣秀頼、総大将・毛利輝元の出馬を要請していましたが、いずれも淀殿に拒否されて果たせませんでした。毛利輝元には出馬の意思がありましたが、増田長盛が内通の風聞があったため動けませんでした。さらに西軍の首脳・前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態が発生しました。徳川家康が赤坂を出て中山道を西へ向かいました。これを察知した石田三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託すと、関ヶ原方面へ転進しました。西軍の転進を知った家康も、即座に関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城の監視を命じて西へ向かいました。その頃、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出して、松尾山に陣を構えました。小早川秀秋は「伏見城の戦い」以降、病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政を経由して家康に打診していました。1万5000の大軍を擁する小早川秀秋を繋ぎとめるため、徳川家康と石田三成は破格の恩賞を与える約束を行っていました。家康は上方二ヶ国を与えると提示し、西軍は豊臣秀頼が15歳になるまでの間、小早川秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示しました。小早川秀秋を巡る水面下での謀略が入り乱れるなか、両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結し、決戦の火蓋が切られようとしていました。濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙し、霧が薄くなってきた頃、福島正則隊の横を井伊直政と松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていました。家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣・可児吉長が呼び止めて詰問しましたが、「物見」と称して福島隊の前方へ張り出しました。井伊直政の小隊は、西軍の主力・宇喜多秀家隊に向けて発砲し、宇喜多隊も直ちに応射しました。そこに、井伊隊の抜け駆けに激怒した福島隊が宇喜多隊に突撃しました。ここに「関ヶ原本戦」の火蓋が切られました。石田三成は、開戦から2時間を過ぎた頃、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げました。さらに島津義弘隊に応援要請の使いを出しました。島津義弘は「使者が下馬しなかったため無礼だ」という理由で応援要請を拒否しました。また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できずにいました。結局、最後まで南宮山の3万3000もの大軍は参戦せず、直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となりました。家康は内応を約していた小早川秀秋隊が、動かない事に業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えました。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決して松尾山を降り、ここに小早川隊1万5000の大軍は東軍に寝返りました。小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂高虎・京極高知隊と激戦を繰り広げていた大谷吉継隊の右翼を攻撃しました。大谷吉継は、かねてから風聞のあった小早川秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返しました。ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4200の西軍諸隊が、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷吉継隊の側面を突きました。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った大谷吉継は自刃して果てました。大谷隊を壊滅させた小早川秀秋、脇坂安治ら寝返り部隊や、藤堂高虎、京極高知などの東軍部隊は、死闘を繰り広げている宇喜多秀家隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向けて進軍を始めました。ここに「関ヶ原の戦い」の勝敗は、ほぼ決定しました。小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅によって家康本隊が動き出し、東軍は西軍に総攻撃をかけました。宇喜多隊は3倍以上の東軍の前に壊滅し、宇喜多秀家は小早川秀秋と刺し違えようとしましたが、家臣に説得されて苦渋の思いで敗走しました。宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西行長隊も壊滅し、小西行長は敗走しました。石田三成隊も東軍の総攻撃を相手に粘り続けましたが、島左近、蒲生頼郷、舞兵庫などの重臣が討死して壊滅しました。石田三成は伊吹山方面へ逃走しました。こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲されました。ここに、島津の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口」が開始されます。島津義弘隊1500が一斉に鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央に突撃を開始しました。西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの反撃に虚を衝かれた福島正則隊は混乱し、その間に島津隊は強行突破に成功しました。続いて松平忠吉、井伊直政、本多忠勝の3隊が迎撃しましたが、突破されました。この時点で、島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなってしまいました。島津隊の勢いを見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜きました。しかし、島津隊は直前で転進し、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始しました。松平、井伊、本多の徳川諸隊は島津隊を追撃しましたが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みました。実際、決死の覚悟を決めて死兵と化した島津隊将兵の抵抗は凄まじく、追撃した部隊のうち、井伊直政と松平忠吉は狙撃されて負傷し、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれて落馬しました。徳川諸隊は、島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれた事と、すでに「本戦」の勝敗が決していた事、また家康から追撃中止の命が出た事から深追いを避けました。島津隊は島津豊久や長寿院盛淳、肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも撤退に成功しました。長寿院盛淳は、島津義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹しました。また、西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢は戦わずして撤退を開始しました。浅野幸長、池田輝政らの追撃を受けましたが、長宗我部盛親、長束正家、安国寺恵瓊隊の援護を受けて無事に戦線離脱し、伊勢街道から大阪方面へ撤退しました。殿に当たった長宗我部、長束、安国寺らの軍勢は、損害を受けながらも辛うじて退却に成功しました。安国寺勢は毛利勢、吉川勢の後を追って大阪方面へ、長宗我部勢、長束勢はそれぞれの領国である土佐、水口を目指して逃亡しました。西軍諸隊の中でまともな形で撤退できたのは彼らだけでした。こうして「関ヶ原の戦い・本戦」は、徳川家康が率いる東軍の勝利となりました。

その次の次に、ナポレオン戦争:トラファルガーの海戦です。ヨーロッパ大陸は、皇帝ナポレオンが率いるフランスの支配下に置かれていましたが、海上の支配権はイギリスにありました。イギリスは海上封鎖を行ってフランスの海軍力を抑止し、イギリス本土への侵攻を防いでいました。ナポレオンはこの状況を打破するため、イギリス遠征軍の対英上陸作戦を援護すべく封鎖を突破する事を命令しました。フランスとナポレオンの支配下にあったスペインの連合艦隊を編成して海上封鎖を突破し、ブーローニュの港に集結させた35万の侵攻軍によるイギリス本土上陸を命じました。イギリスはそれを阻止すべくホレーショ・ネルソン提督の艦隊を送りました。ネルソン提督のイギリス艦隊は「ヴィクトリー」を旗艦とする27隻で、ピエール・ヴィルヌーヴが率いるフランス・スペイン連合艦隊は「ビューサントル」を旗艦とする33隻でした。ネルソン提督は敵の隊列を分断するため、2列の縦隊で突っ込む「ネルソン・タッチ」という戦法を使いました。ヴィルヌーヴも多縦列による分断作戦を予測し、マストに多数の狙撃兵を配置していました。連合艦隊は数では勝っていましたが、スペイン海軍も混じっていたため指揮系統が複雑で士気や錬度が低く、艦載砲の射速も3分に1発と劣っていました。一方、イギリス海軍は士気も錬度も高く、射速も1分30秒に1発と優れていました。激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4000、捕虜7000という被害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となりました。イギリス艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1200という被害で済みましたが、ネルソン提督はフランス狙撃兵の銃弾に倒れました。ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした。」と言い残して絶命しました。この戦勝を記念して造られたのがロンドンの「トラファルガー広場」です。広場にはネルソン提督の記念碑が建てられています。ナポレオンはこの敗戦により制海権を失い、イギリス侵攻を諦めざるを得なくなりました。ナポレオンは、この海戦の敗退による危機を、2ヶ月後の「アウステルリッツの戦い」の勝利で打開します。

最後に、東京専門学校(現・早稲田大学)が設立です。江戸時代末期の蘭学校「北門義塾」が1872年に閉校後、その意思を受継いで隣地に、大隈重信が「明治十四年の政変」で下野した後の1882年10月21日に設立されました。当初は、創立者・大隈重信の別邸が東京府南豊島郡早稲田村に、校舎が同郡戸塚村にあった事から関係者が「早稲田学校」、「戸塚学校」と言っていましたが、最終的に「東京専門学校」と名付けられました。1892年には、専門学校の別名として「早稲田学校」と呼ばれるようになり、1902年9月2日付で、専門学校から大学への昇格を機に大隈重信によって代表される「早稲田」の地名をとり「早稲田大学」と改称しました。日本の私立大学では「慶應義塾大学」と共に最も古い「大学令」に基づく大学となりました。

今日の誕生日:朱元璋(洪武帝)、東山天皇(第113代天皇)、アルフレッド・ノーベル、江戸川乱歩、白川由美、五月みどり、蛭子能収、大場政夫、角替和枝、永島敏行、岡田京子、渡辺謙、今井寿(BUCK−TICK)、アルシンド、西島千博、米倉利紀、高山樹里、松田洋昌(ハイキングウォーキング)、大江麻理子、高野志穂、道端ジェシカ、中間淳太(ジャニーズWEST)、大島涼花、伊藤美誠

今日の記念日:あかりの日、国際反戦デー、センチュリー21の日、早稲田大学創立記念日、バック・トゥ・ザ・リサイクルの日

今日の「今日訓」:本日は、1879年10月21日にトーマス・エジソンが、京都産の竹の繊維を炭化させたフィラメントを用いて白熱電球を完成させた事にちなんで「あかりの日」、1882年10月21日に大隈重信が早稲田大学の前身・東京専門学校を創立した事から「早稲田大学創立記念日」、1966年10月21日に「日本労働組合総評議会(総評)」が「ベトナム反戦統一スト」を実施し、同時に全世界の反戦運動団体にベトナム戦争反対を呼びかけた事で「国際反戦デー」、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、ごみを燃料にした車型のタイムマシーン「デロリアン」が到着する未来が2015年10月21日である事から「バック・トゥ・ザ・リサイクルの日」、「1021(セン21)」の語呂合わせで「センチュリー21の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する