日本神話の成立過程はやまと王朝の全国統一過程を反映したものであり、
帰属した諸族の序列や地位、由来などを保証する都合に即したものになっている、
というあまり根拠なき前提に基づいて、勝手に想像してみた。
また、やまとの王朝の所在地は畿内、特に今の奈良県内だったという前提に基づく。
きっかけは、フツヌシなのだよな。
やまと歴代の大王の名には、ヒコの二字が入っている。
形は、時期によりイリヒコだったりタリシヒコだったりもするが、
だいたいの大王の名にはヒコの二字がある。
また神話において天つ神(天照大神に繋がる天上の神々)に属する神々の名には、
しばしば"ヒ"の字が含まれる。
カミムスヒ、タカミムスヒとか、天孫降臨のニニギの正式名称にもヒ(ニニギの場合はヒコ)が含まれる。
一方、地方諸族にはヌシの二字が含まれ、これは県主制度にも反映されている。
地方諸族には比較的早期からやまとに服属していただろう畿内の豪族をも含む。
(たとえば物部氏, 葛城氏, 蘇我氏など)
そしてやはり神話にあっては、服属した国つ神に属する神々の名には、
しばしば"ヌシ"の字が含まれる。
国譲りまで地上の主であった出雲の大国主。これは出雲族の氏神だ。
その子で国譲り神話に出て来る出雲の事代主。
これは葛城氏の氏神ともされ、あるいは東出雲の支配氏族の氏神ともされる。
大国主の和魂とされる三輪山の大物主。これは三輪氏族の氏神。
また、葛城の一言主も氏子たる葛城氏が三輪氏族に属することから、
これも国つ神と見てよいだろう(事代主の分霊という説もある)
この流れで行くと、香取神宮の祭神、経津主(フツヌシ)の立ち位置が分からなくなる。
経津主は石上神宮の祭神、布都御霊にも通じる音韻を持ち、物部氏の氏神とも言われる。
物部氏は古い神別氏族でありやまと王朝を支えた豪族のうち最古参に属する部類の一氏族だが、
しかし大王家ではないため、あくまでも地方領主だ。
その氏神に"ヌシ"の字が含まれることは不思議ではない。
不思議なのはこのフツヌシが、国譲りにおいて活躍していることだ。
国譲り神話は、天照大神の命令で葦原中国を天つ神の支配下におくことにし、
葦原中国を実効支配していた出雲の大国主に国の譲渡を迫る神話だ。
が、細部においては日本書紀と古事記とで記載がことなる。
舎人親王撰の日本書紀では、天照大神が大国主のもとに派遣した使者は、
正使がフツヌシ、副使がタケミカヅチとされた。
両神が剣の切っ先の上に坐ってみせるという形で天つ神の力を誇示し、
それを以て大国主を恫喝、さらには抵抗した大国主の子タケミナカタを実力で屈服させ、
国譲りを成し遂げた、とある。
一方、藤原不比等撰の古事記では、フツヌシの名は出て来ない。
タケミカヅチが派遣され、単独で国譲りを成功させている。
ひとまず、古事記の記載は措こう。
まず日本書紀の記載について考えて見ると、正使がフツヌシ、副使がタケミカヅチ。
つまり国譲り最大の功労者はフツヌシということになる。
フツヌシは上述の通り物部氏の氏神で、名付けからから言うと国つ神だ。
にもかかわらず国譲りにあっては天つ神としてその正使を務め、国つ神を屈服させている。
この経過について、特に根拠もなく想像を働かせてみた。
出雲族は鉄の国出雲を根拠地とする独立勢力で、当初はやまと王朝の支配下になかった。
ところが、いつ頃かは分からないが両者は衝突するようになり、
やがて出雲族はやまと族の前に屈し、服属するようになった。
この事件が起こった時、出雲族との戦争(ないし外交交渉)を指揮していたのは、
物部氏であったのではないか。
物部氏はもと大王家とは起源を異にする奈良の豪族で、
出雲との抗争の頃には既に大王家に服属し、王朝を支える重臣のひとつとなっていた。
(根拠地はおそらくいまの天理市の辺り)
物部氏の職能は武器の管理そして軍事であり、その重みはその職能の重みからも推測できるが、
出雲との抗争の頃には政権内において既にその地位を確立させていた。
で、その職能ゆえに対出雲戦争(あるいは砲艦外交)を指揮したのは、
軍事を職能とする物部氏であったと。
こう考えると、氏族の職能に照らしても(軍事を司る物部氏が抗争を担当する自然さ)
抗争の時期に関しても(大王家が近所の物部氏も服属させぬまま遠方の出雲族と戦争するとは考えがたい)
地方諸族の神たる"ヌシ"の名を持つフツヌシが天つ神であることを合理的に説明できるのではなかろうか。
ここからさらに考えを発展させると、タケミカヅチの存在だ。
タケミカヅチは鹿島神宮の祭神であり、それを分霊して春日大社の祭神ともされた。
春日大社のタケミカヅチを氏神として尊崇していたのは藤原氏であり、
藤原氏は藤原の姓を賜るまでは、中臣氏を称していた。
中臣氏もやまとの王朝を支える古参の豪族のひとつで、その本拠地は山背国。
タケミカヅチの子孫を称している訳ではないが、物部氏に準ずるほどの古い神別氏族だ。
当初は物部氏よりも序列の低い氏族であったが、物部氏滅亡の後、
蘇我氏の討伐に貢献し擡頭した。
そこに、古事記, 日本書紀の成立過程を加えてみる。
日本書紀は皇族たる舎人親王の撰で、古事記は中臣氏の子孫たる藤原不比等の撰。
そして物部氏はそれらの成立前に滅亡しており、
また古事記の頃には藤原氏が権力を掌握しつつあった。
これらのことを併せて考えると、実際の出来事が何となく想像できる気がする。
つまり、対出雲族の抗争を指揮していたのは物部氏で、
中臣氏がその副将を務めていたのではないかと。
ところが、推古朝の頃になって物部氏は蘇我氏との抗争に敗れ失脚、
さらには蘇我氏も中大兄皇子、中臣鎌足らに滅ぼされた。
滅びた物部氏(の氏神)をいつまでも活躍させ続ける意義の薄れたこと、
さらには古事記の撰者たる藤原氏がわが氏神を優遇しようとしたこと、
それらの思惑により、古事記ではフツヌシの功績がそっくりタケミカヅチのものとされたのではなかろうか。
以上、根拠はない。
名前と神話の記載とだけを見ての勝手な想像である。
割といい想像ではないかとは思っているが。
なお余談、国譲り後日譚のことも併せて考えると、面白いかもしれない。
国譲りにあっては、大国主は滅ぼされていないのだよね。
どころか、それまで通り出雲に住まうことを許されており、
かつ、天孫に負けないくらいの巨大な宮殿に住まうことをも許されている。
これをそのままやまとと出雲との抗争を反映したものと仮定すると、
やまとは出雲との抗争に勝ち、これを服属させた。
しかし滅ぼしたのではなく吸収合併しただけで、ある程度の領国支配を認めていたのではなかろうか。
ただ、服属させる以上は人質をとるなり、当主を呼び寄せて中央に住まわせるなり、
出雲を制御する何らかの対応策が必要になろう。
人質は、分からない。
ただ当主を呼び寄せるということについてはやったかもしれない。
というのは、賀茂氏の如く出雲系の氏族が畿内にもいることがひとつの根拠になる。
また、神話に絡めてみると、三輪山の大物主は大国主の分霊とされる。
大物主は三輪氏族の氏神である。
また葛城の一言主は、大国主の子にして東出雲の神たる事代主の分霊とされる。
一言主は葛城氏の氏神である。
という部分まで含めると、おそらく大物主, 一言主を祀っていた三輪氏族, 葛城氏は、
抗争に敗れやまとの中央に移住させられた出雲の王族やその連枝だったのではないかと。
降伏したとはいえ大勢力の主ゆえ、やまとに移り住んでも一定の地位を与えられ、
おそらく大王家との政略結婚もあったのだろう、
その氏神たる大物主も2代目天皇たる綏靖天皇の外祖父として神話に取り込まれている。
まとめると、やまとの王朝を奈良にあったものと仮定し、
さらに神話がその版図拡大の歴史を反映したものと仮定すると、
物部氏や中臣氏がいつ頃からやまとの王朝に属していたか、
出雲族がいつやまとに下り、どのように処遇されたか、
というところが想像できるような気がする。
気がするだけで根拠はないが。
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