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2016年10月15日00:30

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俳句&散文詩 「信濃路」

2016年10月13日、所用で長野へ。



俳句&散文詩 「信濃路」  2016/10/15

◆信濃路や曇天を打つ秋の青    リーフ

信濃路は朝から曇天だった。しかし、その厚い雲の上には澄み切った蒼穹が広がっているはずだ。
秋晴れの真っ青な空の青が曇天の雲にしずくを垂らしているように思いきや
突如としてその音は太鼓のように遠雷のように厚き雲を打ち始めた。
そんなイメージが広がる信濃の秋の空だった。


母のいる老人ホームに着いたのはまだ11時ごろだった。
外にはなかなか母を連れ出してはくれない施設のようだった。
以前の施設はホーム周辺を時には職員さんが散歩させてくれていたようだが。

私は、そんな母の悲しみを知ること無くもう何年も過ぎていた。

ふと、車いすの母が、ガラス戸越しの外のナイロン袋を語り始めた。
もうずっとそこにあるそうな。
そういえば八月に私が来たときもそういっていたような気がする。
ガラス戸をあけて部屋のゴミ箱に入れようかと聞くと、そのままにしておいてほしいと言う。
掃除の人がいるからと。

そして小さな葉の青々とした植木の青さをたたえていた。


私はふと、羽仁五郎の一節を思い浮かべた。
氏は、第二次世界大戦後しばらくしてハンガリーに行ったと言う。
社会主義の国で、以前金持ちの別荘だったところを戦争孤児の託児所にしていた。
とても素晴らしい別荘だったそうだ。子供たちも楽しそうだったと言う。
ところがふと一人の子供がこう聞いたそうだ。
「戦争中何してたの?」
日本人だから戦争中相当ひどいことをしていたのだろうとこの子は思ったのではないか。羽仁五郎はそう感じたそうだ。
「牢屋に入っていたよ」そう答えると、
「じゃあ、ローゼンバーグと同じだね」と子供は言った。
そして「ローゼンバーグのように死刑にならなくてよかったね」と言ってきた。
(注:機械商ローゼンバーグ夫妻は1950年、アメリカで、ソ連の原子力スパイの嫌疑で逮捕され、のちに死刑。実弟の密告のみが「証拠」という。)

この子供とのやり取りの問題はその後だった。奇妙なことを言ってきた。
「ぼく色盲なの」という。
それで「じゃあ、あそこに咲いている花の色はどう見えるかい?」と聞くと、
「赤い花だ」という。実際に赤い花だった。
「じゃあ色盲でもなんでもないじゃないか」というと
「ああ、そうだ、ぼくは色盲じゃなかったんだ、ぼくは偏平足だったんだ」という。
「それじゃ、ちょっと足を見せてごらん」と言って靴下を脱いで見せてもらったが偏平足ではない。
「ちゃんとへこんでいるじゃないか」というと
「ああそうか、なんでもないのか」と言ってどこかへ行ってしまったという。

氏はこういう子供の表現は、今の大人ではほとんど理解できないだろうという。
そして、この子供が何を言いたかったのかというと、たぶん自分は戦争で両親を殺されて、とても不幸なのだということを言いたかったのだろうと書いていた。
自分ではどうにも解決できない悲しみやつらさが、色盲であるとか、そうでないなら偏平足だというような、その子どもの表現になったのだろうと。

そしてこう続けている。
今の大人は、このような子どもの話を聞いてもやらないのではないかと。
親はテレビの野球だの歌合戦だのを見るのに夢中になっていて、子供が何か本気で質問したりしても、「うるさい」の一言で追っぱらってしまうと。そういう風なのが家庭の日常になっているのではないかと。


ナイロンの袋が窓ガラスの外に二か月もある。それでも取り除こうかというとそのままにしておいてと言って眺めている。掃除の人がいるからと。
掃除の人はいるだろうが、このナイロンの袋を掃除してないからいまだにある。
痴呆ではないが、つじつまの合わない奇妙さに、私は羽仁五郎が出逢ったハンガリーでの子供との会話を思い出した。

小さな緑の葉をつけた木は確かに緑だがつじつまは有ってはいるが・・・。
漂うナイロンの袋を見つつ母は外気に漂うこのナイロン袋に己の願いを重ねていたのではないか?
そんな潜在意識が働いているのではないか?

昔の人で、苦労人で、言いたいことが有っても言わずに来た母なればこそ、遠慮で表につれてって欲しい、
車いすを押して外気に当てて欲しい、外気浴をさせて欲しい、秋の光の中を散歩させて欲しい、そう言えないのではないか。

「お母さん、外に出てみる?散歩する?」
そう聞くと返事をしない。
ノーならノーと言う人だが一瞬なにも言わずにいた。
「じゃあ、外へ行こう、散歩しよう」
そういうとほのかにうれしそうな笑みが返ってきた。


朝の曇天から青空がところどころ出てきていて、光が射していた。
風らしい風もなく散歩日和だ。



外に出るとすぐに陽だまりにコスモスの一群があった。
幼いころ、母はコスモスが大好きだと私に言ったことがある。その時の表情、抑揚、それはほんとうにコスモスが好きなんだということが幼い私にも伝わってきた。今もありありと脳裏に残っている。

陽だまりにコスモスは咲いていた。

◆コスモスや外気に触れし母の顔   リーフ


車椅子を押しながら歩き続けた。母は気持ちいいといっていた。さわやかな外気だった。

【了】


<追記>
名詞で始まり名詞で終わる俳句は良くないと聞く。
おそらく二つの名詞がイメージを打ち消し合い、焦点がさだまらぬのではないか?
しかし、二つの名詞がオーバーラップする効果もあるのではないかと思う。
余韻としての切れ字のついた季語と、コスモスを愛し、外気に触れた命の喜びは重なっている。

あえて名詞を始めと終わりにおかない形にするなら、

◆コスモスや外気に母の顔触れて    

とでもなるのだろうが、これよりも私は

◆コスモスや外気に触れし母の顔   

を採りたい。

俳句なんて時代とともに作り方は変わってきている。

家元制度なんてその程度のものだ。
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