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2016年10月06日16:14

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歴代天皇の皇位継承について


日本の歴史は、天皇の御代が永続されていることで成立していると表現しても過言ではない。

その間、為政者は、摂政・関白・征夷大将軍・内閣総理大臣と変化しても、天皇は常に我等が国家と民族統合の象徴であった。

故に私達の祖先はいつの時代にあっても天皇を拝戴してその御存在を尊崇して来た訳である。

しかしながら、悠久の歴史において皇位の継承は幾つかの困難が生じたことがあったのも又事実である。

そこで今回は歴代天皇の御系図である大統譜を読み解きつつ、過去に起きた危機を先人達はどの様に対処したのかを大局的に概観して振り返ってみたいと思う。




第23代顕宗天皇

 第21代雄略天皇は実子の白髪皇子を御後継とされる為にその他の皇族を粛正される。
果たして即位された第22代清寧天皇には皇子女がなかった。
やがて第17代履中天皇の皇子の磐坂市辺押磐皇子の遺児であった億計王と弘計王が隠れ潜んでいた播磨国から救い出された。
そして清寧天皇の崩御後に兄弟は皇位を譲り合って、結局弟君の弘計王が顕宗天皇として即位され、兄君の億計王が皇太子(後の第24代仁賢天皇)となった。
 



第26代継体天皇

 第24代仁賢天皇の皇子であった第25代武烈天皇には皇子女がない侭に崩御された。
そこで第14代仲哀天皇の五世孫たる倭彦王を丹波から迎え入れようとしたが、山野に隠れて所在不明となってしまった。
その為、越前にいらした第15代応神天皇五世孫の男大迹王が群臣によって皇位に即き給うた。
このお方が継体天皇である。
母君は第11代垂仁天皇の七世孫の振媛なので身分は確かなものであった。
継体天皇は皇室の御本流を継承すべく亡き武烈天皇の皇姉であった手白香皇女を皇后とされている。



 
第49代光仁天皇

 第46代孝謙天皇は御重祚して第48代称徳天皇とおなりになったが、終生、御独身で御婚姻はなさらない侭で崩御遊ばされた。
称徳天皇の御代には法王の道鏡に皇位を継承させようとなさったこともあった。
そこで群臣が相謀って第40代天武天皇と第41代持統天皇の御係累ではなく、大化の改新をせられた第38代天智天皇の皇孫である白壁王が御年六十二歳で登極あらせられた。
このお方が光仁天皇である。



 
第59代宇多天皇

 第57代陽成天皇が年若くして退位せられた為に、第54代仁明天皇の皇子であらせられた時康親王が第58代光孝天皇として即位。
その皇子で臣籍に降下していた源定省が皇籍に復帰して親王宣下を受け給い、やがて宇多天皇とおなりになった。



 
第102代後花園天皇

 第101代称光天皇は生来御病弱であった上に親王の誕生がなかった。
しかも皇太子に擬せられていた弟君の小川宮も早逝された。
当時、治天の君たる御立場(上皇)であらせられた第100代後小松天皇は、北朝3代崇光天皇の皇孫である貞成王に親王宣下をされて皇位継承者にされた。
けれどもこのことが称光天皇の御勅勘に触れ、貞成親王は出家せざるを得なくなった。
そこで後小松上皇は貞成親王の皇子である彦仁王を御猶子とされ、称光天皇の崩御後に後花園天皇として御即位せしめた。




第119代光格天皇

 第118代後桃園天皇が宝算二十二で崩御されると、皇叔母であった第117代後桜町天皇(上皇)のお取り計らいで、第113代東山天皇の皇曾孫であった閑院宮兼仁親王が光格天皇として御即位せられた。
光格天皇は世襲親王家(宮家)から皇室の御本流を継承された為に後桃園天皇の皇女である欣子内親王を皇后(新清和門院)とされている。



 
第125代今上陛下

 第124代昭和天皇は、世襲親王家である伏見宮の御系統たる久邇宮家から良子女王を皇后とされた(香淳皇后)。
故に今上陛下は御父方が皇室の御本流であり、御母方が皇室の御傍流であらせられる。
第122代明治天皇は皇女たる内親王方を世襲親王家である伏見宮系統の各王と御娶せて、竹田宮・北白川宮・朝香宮・東久邇宮を御創立になっている。
だから皇室の御傍流である伏見宮系統は御本流と分かち難く一体化しているのである。
竹田・北白川・朝香・東久邇の旧宮家は、仮令、臣籍に降下されていたとしても今上陛下のお血筋に近い御親族であることは間違いない。
終戦直後の混乱期に占領軍の政策で皇籍を離脱された旧宮家の復興こそ、戦後70年の節目に政府(内閣)が行わなければならない喫緊の課題ではなかろうか。

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