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2016年10月03日19:28

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2016年10月03日の野球記事

【2016年10月03日の野球】

野村克也さん
阪神への“遺言”
「キャッチャーを育てろ」

デイリースポーツ 10月3日(月)14時25分配信

野村克也さん=東京都千代田区の小学館

元監督・野村克也さんの
阪神タイガースに対する提言、
いや“遺言”に、
耳を傾けてほしい。
実は
野村さんは
記者から
「ノムさん」と
呼ばれることを嫌う。
なので、
野村さんと呼ばせていただく。

ノムさん、金本阪神をバッサリ!「僕は正反対」

私が
野村ヤクルトの
番記者をやっていたのは、
1992年のシーズン。
この年、
野村“ID野球”が花開き、
日本シリーズでは西武に敗れたが、
ヤクルトが
14年ぶりのリーグ優勝を
勝ち取った年である。

その野村さんが今回、
小学館から
「野村の遺言」という本を
出版したということで、
インタビューに応じてもらった。
本は
「『生涯一捕手』
貫く著者の、
最初で最後の本格捕手論」だが、
インタビューは、
らしさ全開の内容だった。
話の中に、
阪神浮上のヒントが
詰まっていたように思う。

まず、
口をついて出たのは
「キャッチャーを育てろ」
という持論だった。
元阪急監督の上田利治さん、
元西武監督の森祇昌さん、
そして野村さん…。
かつて日本一に輝いた
チームの指揮官は
キャッチャー出身で、
キャッチャー育成にこだわっていた。

「阪神に限らず、
12球団でも
これというキャッチャーはいない。
(強い)チームを作るには
キャッチャーを育てないと。
キャッチャーが育ったら、
チーム作りは
半分終わったようなもの」−と。

今年の阪神は、
育成出身の原口が台頭してきた。
だが、
それは打撃に関してのもので、
キャッチャーという観点では
今年も育たなかった。

さらに、
野村さんはチーム改革のために、
首脳陣やナインに対し
「とは理論」の重要性を
指摘してくれた。
「『野球とは』
『勝負とは』
を絶えず、
自分に問うべきだ。
それが問題意識につながる」。
独特の口調が熱を帯びたが、
これは
問題意識を持たずに
淡々と野球をすることが、
根拠のない野球につながり
「評論家泣かせの
面白みのない野球に
つながっている」との
憂いを抱いているためだ。

また、
改めて
春季キャンプの重要性も
説いてくれた。
「プロ野球の1年の計は
キャンプにある。
本来、
思考と行動には
密接な関係がある。
キャンプでは
その考え方のエキスを、
注入しなくていけない」
という。

これらの辛口コメントも、
阪神の監督時代に
チーム改革が進まなかったことに
「後悔」を抱いていることが大きい。
野村さんは
当時を振り返り、
1年目のシーズン後に
辞任を申しでて、
当時の
久万オーナーから
「契約ですから
3年やってほしい」と
慰留されたことも
明かしてくれた。

それだけに、
「(阪神の)監督をやったことは後悔」
といいながらも
猛虎再建について、
名将は
思考を張り巡らせていたに
違いない。
「野村の遺言」に
込められた思い…。
関係者は
どう読み解くのだろうか。

◆野村克也(のむら・かつや)
1935年6月29日生まれ。
京都府出身。
京都府立峰山高校から
テスト生として
南海ホークスに入団。
1965年に
戦後初の三冠王を獲得。
1973年
プレイングマネージャーとして
初のリーグ優勝。
その後、
ロッテ、西武と渡り歩き
1980年に引退。
通算3017試合に出場、
657本塁打、
1988打点、
打率・277。
1989年に野球殿堂入り。
1990年〜1998年ヤクルト監督、
1992年にリーグ優勝、
1993年に日本一。
1999年〜2001年阪神監督、
2002年〜2005年社会人シダックス監督、
2006年〜2009年楽天監督。

ノムさん、
イチロー見た時の衝撃語る
「こんないい選手がどこにいたんだ」

イチローを絶賛した野村克也氏

ヤクルト、楽天などで
監督を務めた野村克也氏が
24日深夜、
TBS系の「S1」にVTR出演し、
メジャー通算3000安打に
あと4本と迫っている
マーリンズのイチローについて語った。

初めてイチローを見たのが
ヤクルト監督時代のオープン戦だったという。
「こんないい選手がどこにいたんだ。
ドラフトのリストにどこにもないと、
文句言ったことがある」と、
イチローとの衝撃的な出会いを振り返った。

踏み出した右足が開かない打撃フォームを絶賛。
今なお安打を積み重ねるイチローに
「天才的な人が努力すると、
凡人には遠い人になってしまう。
大したもんだ」と、
その姿勢を絶賛した。

張本氏、
ノムさんへのバット報復を告白
「あんまりささやくんで」

張本勲氏

野球解説者の張本勲氏が
31日、
レギュラーコメンテーターを務める
TBSテレビ
「サンデーモーニング」
(日曜、前8時)の
人気コーナー
「御意見番スポーツ」で、
現役時代に
打席でのスイング後、
当時の捕手だった野村克也氏に
わざとバットを当てたことを
告白した。

24日の
中日−ヤクルト戦
(ナゴヤドーム)では、
中日・杉山翔太捕手が
ヤクルト・バレンティンの
スイングしたバットを
頭に受けて昏倒(こんとう)し、
救急搬送された。
張本氏は
「私はわざとやったことがある」と話し、
その相手が
「先輩の野村さん。
あんまりささやくんで…」と
バッターに話しかけ、
集中力を切らそうとする
“ささやき作戦”を
常とう手段とする、
野村捕手への
報復だったことを
明かした。

今回の杉山は
捕手用のヘルメットを
装備しながらも、
バレンティンの
強いスイングにより
かなりの衝撃を受けたが、
張本氏は
「野村さんは
ヘルメットを
かぶってなかった。
(自分は)
ちょっと手加減しましたけどね」と
付け加えた。

野村克也氏、
妻・サッチーへの
“遺言”も
ボヤきまくる

野球評論家の野村克也氏

野球評論家の野村克也氏(81)が
28日、
フジテレビ系
「ノンストップ」で、
妻・沙知代さんへの
“遺言”を求められるも
「よく、おれがついていったな」と、
自分をいたわるメッセージを
ぼやく一幕があった。

番組では、
野村氏が発売した新刊
「野村の遺言」
にちなんでの
インタビューを放送。
野村氏は
家族への“遺言”を
問われると、
息子・克則氏については
「いい仕事をする。
その信念に徹して
生きていけよ」と、
コメントしたが、
沙知代夫人への“遺言”は
「よく、オレがついていったな」と、
なぜか
自分をいたわる
メッセージに
すり替わってしまった。

更に
野村氏は
「(夫婦は)
どっちかが
耐えなきゃいけない
という相性だから、
奥さんは
我慢する性格じゃないから、
オレが我慢するしかない。
主導権は
奥さんに
握らせておいた方がいい」と
コメントすると
「世界広しと言えど、
うちの奥さんと
生活していくなんて男は
オレ以外にないよ」と
ぼやきまくっていた。

西本幸雄さんの“遺言”
「斎藤佑樹の投げ方はいかん。
腕をしならせろ」

西本幸雄さんの告別式で
弔辞を読んだ梨田昌孝氏
=西宮市内

【2011年11月30日付デイリースポーツ記事より】

阪急、近鉄
(ともに現オリックス)の
監督を務め、
25日に心不全のため
91歳で死去した
西本幸雄さんの
葬儀・告別式が29日、
兵庫県西宮市の斎場で営まれ、
近鉄時代の教え子である
前日本ハム監督・梨田昌孝氏(58)ら
約650人が
最後の別れを惜しんだ。
梨田氏は
「昭和56(1981)年に
阪急、近鉄の選手が
西本さんを胴上げしたのは
日本一の胴上げだった」と
弔辞を読んだ。
多くの人々に愛された闘将は
ファン200人の
「ありがとう」という声と
阪急、近鉄の応援旗に
送られ旅立った。

梨田氏は、
恩師の遺影に
語りかけるように
弔辞を読み始めた。

「8回優勝されて
日本一に一度もなれず。
『オレは幸せ者や。
若いやつと一緒に
野球ができて』と
おっしゃってましたが、
本意でなかったですよね。
しかし
昭和56年に
阪急、近鉄の選手が
西本さんを胴上げしたのは、
日本一の胴上げだったと思います」

近鉄で師弟関係だった
梨田氏にとって、
西本氏の存在は
偉大な父のようだった。
「殴られ、
けられたが、
その手の先から
愛情が伝わってきた。
西本さんにお会いして、
プロで長くやらせていただけた」と
振り返った。

今季開幕前日の4月11日、
電話で話した際は
「斎藤佑樹の投げ方はいかん。
能見(阪神)のように
腕をしならせろ」と
アドバイスされた。
電話を切ろうとしても
「まだや。
中田翔のバッティングは…」と
続いたという。
梨田氏は
「野球への情熱が伝わってきた」と
しみじみ語った。

川上哲治氏、
長嶋茂雄氏らの弔電が
読み上げられ、
会場は
球界関係者からの
献花であふれた。
亡くなる直前の19日に
自宅で日本シリーズを
観戦する姿を収めた
VTRも放映。
「点が入らない試合は
われわれにとっては面白くないが、
それだけ投手がいいということ」と
話す眼光は鋭かった。

ひつぎは梨田氏、
上田利治氏(74)、
福本豊氏(64)らに担がれ
霊きゅう車へ。
“悲運の闘将”と
呼ばれた西本さんだが
「オレは幸せ者」と
語った通り、
大勢のファンに
見送られる
幸せな旅立ちだった。

マー君、
ノムさんのボヤキは
発奮材料

ヤンキースの田中将大投手

ヤンキースの
田中将大投手(27)が
19日、
フジテレビ系
「ダウンタウンなう
本音でハシゴ酒
2時間スペシャル
in銀座」に、
かつて
新人時代に指導された
楽天の元監督・野村克也氏(80)と
共に出演。
同氏が
繰り返して発した
ボヤキ言葉が発奮材料になり、
「同じ言葉を言われて
『見てろよ』
というのはあった」
などと振り返った。

番組は
田中の夫人で
タレントの
里田まい(31)が
米東部時間15日に
男児を出産する
11日前に
東京・銀座で収録。
田中が
家を出るときに
キスで見送られることなど、
夫婦生活の一端を
明かしながら
トークを進め、
途中から
野村氏が参加した。

田中は
2007年に
野村氏の元で
プロ生活を始めたが、
「監督として
素晴らしい方の
ところに行けた。
怒られたことはあるが、
むかついたことはない」と
最初は語った。

一方で
野村氏は
自身が監督時代に発した
「マー君、神の子、不思議の子」
という名言について
「(楽天は)
ピッチャーがいないから
先発させたが、
3試合連続でつかまった。
『無理かな』とも思ったが、
KOされても
敗戦投手にならない」と
振り返り。
田中も
「点を取ってもらった」と
思い起こしていた。

山本一義さん死去、
78歳
=広島の強打者、
ロッテ監督

時事通信 10月3日(月)17時20分配信

1960年代から70年代にかけて
プロ野球広島の主軸打者として活躍し、
ロッテ監督などを務めた
山本一義(やまもと・かずよし)さんが
9月17日午後9時4分、
尿管がんのため
広島市の病院で死去したことが
3日、分かった。
78歳だった。
広島県出身。
告別式は家族葬として済ませた。

9月10日に
広島が
25年ぶりの
セ・リーグ優勝を果たし、
祝賀ムードに
水を差したくないとする
故人の意向で、
遺族が公表を
控えていたという。

広島商高から
法大を経て、
61年広島入団。
強打の左打者として
1年目から89試合に出場した。
15年間で5回、
打撃10傑入り。
タイトル獲得はならなかったが、
ベストナインに2回選ばれ、
オールスター戦にも5回出場した。

広島がリーグ初優勝した
75年限りで現役を引退。
通算1594試合、
1308安打、
打率2割7分、
655打点、
171本塁打だった。

引退後は
広島や近鉄(現オリックス)などの
コーチを経て
82年から2年間、
ロッテ監督を務めた。

卓越した技術理論と
美しい打撃フォームで知られ、
熱心な指導で
高橋慶彦、
金本知憲ら
多くの打者を育てた。
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