娘が産まれてから、あまりにも子育てと仕事の両立がきつかったため、
妻と二人で外出することはできませんでした。
最近、娘が4歳と大きくなったことから、時々気を遣って義理の母(妻の母親)が娘の寝かしつけをやってくれることがあり、妻と二人で出産以来初めて映画を見に行くことができました。
私は仕事を始めてから、映画やドラマは見ないようにしてきました。
フィクションは事実ではないため、歴史の史実や科学的知識ほどの価値はないと考えたからです。
でも、実のところ、自分の精神の中核部分は、
案外子供のときに読んで感動した漫画やゲームから出来ているような気がします。
(自分が幼稚なだけ?)
聖書には、「結婚した男女はもはや二つではなく一つであるから、
神が結んだものを人が離すべきではない。」と書かれています。(マタイによる福音書19章)
また、プラトンの饗宴には「愛する男女は、元は一つの生物であり、それが切り離されたことによってお互いを探し求めるようになった。」という話が出てきます。
私は職業柄、これが事実ではないことをよく知っています。
好きあって結婚した後、別れようとする人、不倫する人と毎週何十人も会っているからです。
しかし、独りでいるとき、やはり、結ばれた夫婦は、一生信頼と愛情を持って生きていって欲しいなあと願う自分がいるのに気付きます。
仕事で現実に対処するときと、純粋に理想を信じたいときは別モノですね。
私は、男性と女性の能力は完全に平等であり、女性は男性と全く対等に社会で活躍できると(心から)信じています。
また、カップルの関係は、日々刻々と移り変わる状況の中において、双方の強固な意志と信頼、不断の努力によって愛情が保たれると信じています。
そして、自分の贅沢や楽しい交友関係よりも、子供に尽くすことに価値があり、後者のために必要であれば前者を犠牲にすべきであると信じています。
しかし、何より、このような考えを他人に押し付けないことが大切であると信じます。
フィクションは、人間の純粋な理想や希望をそのまま形にできます。人間の意志力の価値をそのまま表現できるのです。
現実にあるものとは違う何かを信じていなければ、人生は、異性にモテる高級な衣服を買って身につけ、見栄のために広い家を買って住み、享楽のために旅行に行くということに費やされることになりかねません。
今、この瞬間に、この日本の中にも、社会の中で苦しんでいる人が一定数いると思う。
世界の中では、苦しんでいる人はかなりいると思う。
そのような人たちのために、何かできないか?
そのようなある意味激しい感情を持ち続けることができれば、何かを信じることには、たとえそれが事実ではないとしても価値があるのではないでしょうか。
(以上がビールを飲みながら映画を見た後の感想です。)
ログインしてコメントを確認・投稿する