“エヴァンゲリオン風”道路工事看板、襲来!「警告 入っちゃ駄目だ」制作秘話
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「注目してほしい!・注意してほしい!」
という思いを込めた現場からの発想なんで、とてもステキだと思う。
モノマネを云々するよりも、「独創性」と称して、意味不明なだけのゾンビ゙・アートが氾濫する現代アートのなかで。
これは、訴える力という点では、「ひとつの表現」で、もはや「アート」になっている。
*最近見たコンテンポラリー・ダンスで、ある若いダンサーが、舞踏特有の難解で過酷な身のこなしや動きやポーズに、自分流の解釈と意味をつけて、ストーリー性のあるライブ舞台を構成して、観客の喝采を浴びていた。
本来、コンテダンスそのものが、シューレア的抽象性の発想であることを言い訳に、「解釈を拒否することが芸術的」とするような舞台が多かったなかで。
わずか30人足らずの、アングラ劇場はおろか、小屋ともいえない粗末な舞台で。
このライブは、「一人の具象的なダンサーの誕生」というより、舞踏というダンス言語が、新しい「自己表現方法」としての「ステージ」を獲得したようで、新鮮だった。
ある表現の獲得というのは、新しい価値観・世界観を創造することであるという、その誕生の瞬間に立ち会った思いだった。
*実は2年前にも、このダンサーのライブを見ているのだが、その時は、意味不明の騒音のなかで、統合失調症の発作のような動作を繰り返すだけで、不気味どころか、陳腐で、貧しくて、「何様のつもりだ!」と、怒りすら覚えたものだった。
やはり芸術は、自己を客観的に作品化する、自己治療なんだろう。
舞踏というのは、あまり多くを見ていないので、他にも類例はあるのかもしれないが。
表現方法には、まだまだいろいろな可能性があることを見ることは、老人にとっては、新鮮だし、うれしいことだわ。
*今ではゾンビ化することでメジャー化している現代アートだけど、かつての「前衛」と、こうした模索に共通していることは、「現場からの、ギリギリの思い」なんじゃないのかな?
ということは、いつでも、「前衛」は、見つけようと努力すれば、見つかるってことだね。
才能などと言うものはなくて、ある切羽詰まった、止むに止まれぬ自己表現への執拗で命懸けの取り組みが、作品を生むのだろうな。
*このダンサーは、幼児のころからの実母の暴力に苦しんで、姉が数年前に自死したことで、親を見捨て。
本人も強い希死念慮と暴力のトラウマに苦しんで、何度も未遂を繰り返ししてきたという。
そういえば、ライブの中で、死体の真似が、実にリアルで、上手だった。
*このカンバンも、その発想の背後に、現場からの思いを感じるところに、力を感じる。
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