mixiユーザー(id:2616666)

2016年09月26日21:43

500 view

個人崇拝への一里塚

■首相の呼びかけで自民議員が起立・拍手 衆院議長は注意
(朝日新聞デジタル - 09月26日 17:28)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4211466

身内からの追従と迎合の拍手に陶酔する光景は、ヒトラー、スターリン、毛沢東、チャウシェスク、金日成、などなど、まあ見慣れた光景である。

戦後日本で、ごく標準的に育ってきた人間ならば、これらの権力者を想起させるような行動には嫌悪と抵抗を感じることだろう。このような光景から、悪しき個人崇拝の萌芽を見出すことは、歴史に根拠を持った感覚であって、そう不自然なことではない。自民党では、どうやらそういう感性が摩耗し始めているらしい。

今の自民党が極端な個人崇拝に堕しているとまでは思わないが、こういう行動の先にはそれしか待っていないのである。個人崇拝の危うさはお隣の半島に分かりやすい実例があるから、今更強調することもないだろう。恐ろしいのは、子どもでも分かりそうなくらい危うい方向に自党が向かっていることに、てんで気づかない自民党の鈍さである。

党内である程度の議論が存在していれば、ここまで愚かな行動は取らずに済んだのではないか。こういう愚かな集団的狂態を晒したことは、自民党内部における言論の衰退を間接証明しているに等しい。

言論の萎縮・衰退と個人崇拝は、表裏の関係にある。これは同じ現象の別側面に過ぎない。個人崇拝は無謬性を想定しない限り成立しない。崇拝対象には間違いを犯すことが許されず、常に無謬であることが求められる。

しかし、現実に無謬の存在などいるはずもない。そうである以上、無謬であることは実現の対象ではなく「装う」しかない。その結果、個人崇拝社会において権力者は間違いを犯さないようにすることよりも、無謬の装いを剥ぎ取られないようにすることに最大のエネルギーを注ぎ込む。

それに対して、権力者の誤りを指摘して、監視し続けるのが言論の基本的な役割であるから、個人崇拝の社会に言論は絶対に成立しえない。無謬の装いを剥ぎ取ることを使命とする「言論」は、権力者にとって不倶戴天の敵である。

個人崇拝社会にあっては、「言論」は権力者の無謬をアナウンスするための広報・宣伝機関としてのみ存在する。もちろんそれは本来の意味での言論ではありえない。まさに今国会に現れたような追従と礼賛と迎合に染め抜かれた、いわゆる「官製ジャーナリズム」である。

J・S・ミルは『自由論』の中で、こうした無謬性のフィクションが何をもたらすかについて次のように述べる。

「このようにして思想の対立を避けたために、人間の知的な勇気が全て犠牲にされている。・・・自分の意見を発表する際には、内心では否定している原則にできる限り合わせようとしている状況では、かつて思想の世界に光り輝いていたような率直で恐れを知らない思想家や、論理的で首尾一貫した思想家が登場するはずがない。そうした状況で登場すると期待できるのは、陳腐な決まり文句を並べるだけの人か、・・・聞き手が喜ぶように話そうとする人である」

どうやら最初に言論が死に絶えたのは自民党内部からのようだが、自民党に「陳腐な決まり文句を並べるだけの人」や「聞き手が喜ぶように話そうとする人」が増えていることは、こたびの茶番からよくうかがい知ることができよう。
13 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する