1611年徳川家康は上洛する事になったため家康は豊臣秀頼に対して二条城での会見を大阪に提案する。秀頼の方からでなく家康から
家康は秀頼の成長ぶりを見て、徳川家による今後の全国支配を盤石に行うため豊臣家を滅ぼす決意をしたといわれる歴史的な会見だった。
家康は、やって来た秀頼を自ら庭に出て出迎え、二条城の中で最高の座敷である「御成の間」に通し、二人対等の立場で礼儀を行なう事を提案しますが、秀頼の方が、家康が年長である事、冠位が上である事、嫁(千姫)の祖父である事などを理由に、上座を譲るという形で会見が成された
豊臣家のいわゆる豊臣家恩顧大名たちへの影響力も当時決して少なくなく、だからこそ加藤清正・福島正則・浅野幸長の三人が、家康からの注目があるにもかかわらず、終始会見が無事に終わるように同席したのも脅威を感じた原因だったかもしれない
家康は目の前に現れた秀頼を見て心中穏やかではなかった。秀頼の身長は当時としては巨体といえる190cmもあったいわれてる。誇張を考えても当時としては長身だったす。家康は賢い人物で、臣下となって命令に従うような人物ではないと考え豊臣家に独自の活動をさせておくわけにはいかないと思い亡ぼすことを考える起点になった会見ではあった
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