mixiユーザー(id:47361257)

2016年09月14日10:25

394 view

乳癌についての一考察

小林麻央「がくぜん」乳房にしこり発見時の不安告白
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=4192020

癌の語源は、東洋医学の岩から来ている。

まだ解剖や手術の技術がなかった時代、女性の乳房に硬い岩のような痼が出来、出来たかと思うと、その女性がバタバタと死んだ。

そこから、この乳房に出来る硬い痼を岩と呼んだのが、今の癌という総称の語源だ。

つまりは癌の語源は乳癌から来ていると言っても過言ではないし、それ位の大昔の人々から、恐ろしい病気であると認知されていた、という事になる。

そしてもう一つ大切なのは、解剖や手術の技術がなかった時代でも、癌を認知できたということ。
それは、数ある癌の中でも、乳癌は特別な検査器具や技術を必要としなくとも、身体の外側から触診という形で発見できる、数少ない癌の一つであることを表している。

これは、乳癌の触診の大切さを示すものとして、岩という語源が現代の僕たちに伝えるメッセージだと思う。

さて、僕の母の話をしたい。

今から、20年近く前の事になる。
当時、尼崎で一人暮らしをしていた僕の部屋に、一本の電話が掛かってきた。

実家の母からだった。

母が言うには、風呂上がりに何気なく自分の乳房を触ったら、左の乳房にだけ、パチンコ玉のような硬い痼が触れたのだと言うのだ。
触れたが、病院に行くのが怖くて、億劫で、そのままひと月程放置していたらしい。
それでも、硬い痼は取れず、段々不安になってきた為、僕に電話をして来た、ということだった。

僕は、母の話を聞いて、明日にでも必ず、近くの総合病院に行って、検査を受けてくるよう、母に強く促した。
母は僕のアドバイスを聞いて、次の日、すぐに検査を受けたようだった。
確かに痼が発見され、早速生検を受けることに。

一週間後、生検の結果が分かるというので、僕は仕事を休んで、母に付き添うことにした。
当時、父はどうしても外せない仕事があり、母に付き添うことが出来なかったのだ。

病院の待合室に入り、順番を待つ。
母の不安な気持ちがひしひしと伝わってきて、僕は居ても立っても居られない気持ちを抑えるのが必死だった。

順番になり、母の名前が呼ばれる。

結果は、やはり早期の乳癌だった。
癌という言葉を聞いた時、母は人目も憚らず、死にたくない、死にたくない、とシクシクと泣いた。
僕の頭にも、一瞬母の死が過ぎって、目の前が真っ暗になった。

それでも、自分が確りしなけりゃどうするんだ、何の為に付き添いに来たんだと自分に言い聞かせ、泣いてばかりいる母に代わって、先生からの説明を聞いて、入院の手続きをした。

手術は、一週間後。
左の乳房は全摘することになった。

ところが、その後手術は一ヶ月後に伸びた。
と言うのも、検査の結果を聞いた父が、本や知り合いを当たって、調べ回り、実家のある京都から近い、乳癌専門の病院を探してきたのだ。
しかも、本や知り合いの評判だけでなく、実際にその病院の近くにまで赴き、近隣の方に病院の評判を聞いて回ったりしていたらしい。

当時、仕事の忙しかった父は、殆ど寝ていなかったのではないか。

そして生検の結果を持って、母を連れて、その病院を受診した。
結果は同じく乳癌だったが、どうやら全摘せずとも乳房の四分の一を切除するだけで済むという。
勿論、その場合、放射線治療は必須になるのだが。

それでも父は、できるだけ母の傷を少なく、不安を取り除いてやりたかったのだろう。
普段は、喧嘩ばっかりしている父と母だが、この時ばかりは、父の母への愛情を強く感じたことはなかった。

執刀された先生の御蔭もあって、手術は無事成功した。
あれから20年近くになる。
母の左の乳房は、少し小さくなってしまったが、それでも一度も転移も再発もせず、今も元気に実家で父と暮らしている。

母は運が良かった。

でも、運だけではない。
母は定期的に乳癌検診を受けていたのだ。
それでもその時は、異常がなかった。
母は風呂上がりに何気なく、乳房を触って、痼を発見したから助かったのだ。

たまたまだったが、普段からの触診がどれだけ大切かを示すものとして、この日記を締めくくりたいと思う。



16 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する