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2016年09月10日13:58

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事実の法は「事実」だから「当為(当為は価値)」を論理的推論で演繹できない。

●【事実の法は「事実」だから「当為(当為は価値)」を論理的推論で演繹できない。】

価値二元論で見た時、事実と価値は二元だ。

当為(・・・すべき)は、価値である。

価値は情緒で作られる。

情緒的価値判断は情緒の数だけ存在し得る。

事実から価値は論理的推論で演繹されず、価値から事実も無論演繹されない。



事実の法は、事実だから、「当為(・・・すべき)」という情緒的価値判断を論理的推論で演繹することはできない。

あくまでも事実と価値は二元。

では、自然権を事実の法と羽仁五郎が歴史的研究で看破したことで、自然権を事実の法としたとして、それによって可能な論理的推論はなにか。何をすることができるのか?


論理的推論で、倫理の導出ができるわけではない。道徳を導出できるわけではない。情緒的価値判断を導出できるわけではない。

社会科学として、事実の連関(ここを蹴飛ばせばあそこが飛び出るという事実の連関)を理論として、論理として、社会現象から、歴史から、発見することができる。

机上で発見したら理論、社会的、歴史的に証明したら論理、とここでは約束定義しよう。


論理の発見は、人民の自然権を守る国家を実現する為に不可欠だ。

【了】

【関連日記三部作】
道徳、自然権、事実の法、約束定義
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1955359391&owner_id=38378433

事実の法は「事実」だから「当為(当為は価値)」を論理的推論で演繹できない。
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事実の法が「・・・すべき(当為)」という価値判断を論理的推論で演繹できなくても、 事実の法を自覚した人間の情緒は、反応する
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