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2016年09月08日11:17

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価値二元論の認識目的は、価値一元論(自然主義)から人間の脳みそを解放することにある。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
◇価値二元論の認識目的
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【選択する視点によって、価値二元論は以下の事が言えると思う】

ナチス、日本軍国主義、という視点で見た時、
価値ニ元論はそうしたファシズムに引っ張り込まれる思考と対立する。

近代社会契約の国家の約束定義【国家は人民が作った。人民の自然権たる基本的人権を守るために】という視点で見れば、
価値二元論は、近代社会契約で守ろうとした自然権を守る為にある。
自然権を自然法を、価値一元論としての自然権、自然法から解放した。

学問を自然主義から解放した自然主義ファラシーという視点でみたとき、
価値二元論は人間の思考回路を自然主義から解放する、脳みそへの自然主義ファラシーだ。

価値二元論は、事実の連関に、価値を意図的に混入させて、曖昧主義に導くことを許さない。
だから、社会科学における、事実の連関という視点でみれば、
ここを蹴飛ばせばあそこが飛び出るという事実の連関(理論とここでは約束定義しよう)、即ち理論を発見し、その理論を社会的に現実に投影して、その通りだと証明できた時、(それを論理とここでは約束定義しよう)、その論理が人間の解放、社会の発展に役立つという原理を保障している。


【価値二元論とそれに関係することへの断片的な考察】

●【事実判断と価値判断というのがある。価値判断から価値判断は無限に演繹できる。だが、論理的推論においては、事実判断から価値判断は演繹できない。事実と 価値は二元なのだ。無論価値判断から事実判断は演繹できない。これを価値二元論という。日本人のもっとも欠落している視点だ。
6:05 - 2016年9月7日 】
https://twitter.com/reef100/status/773265882428551168 )

価値二元論は価値一元論と対立する。…でなければならない(当為)は価値だ。価値二元論のいう価値判断とは、情緒的な価値だ。情緒的価値とは、情緒によって作られる。情緒の数だけ価値判断は有りうる。


価値の問題を扱う時に、価値二元論に立つか、価値一元論に立つかは大きな分かれ目だ。

事実の問題を扱うときにも。価値二元論に立つか、価値一元論に立つかは大きな分かれ目だ。

事実判断から事実判断は、論理的推論で演繹できる。しかし、事実判断から価値判断は、論理的推論で演繹できないし、価値判断から事実判断も論理的推論で演繹できない。事実と価値は二元である。

自然科学というのは、事実判断の世界だ。事実判断から事実判断を演繹する。

「正義」というのは、価値判断だ。これは、事実判断からは、論理的推論で演繹できないのだ。人間の情緒を通過して「正義」は情緒の数だけありうる。

・・・すべき(当為)は、論理的推論としては、事実判断からは演繹できない。

以上が価値二元論の骨子だ。
では、対立概念である価値一元論とはどういうものか。自然主義ともいう。
価値一元論は、宗教は典型的な価値一元論だ。
はじめにこれこれの神ありき。ここからあらゆる価値を演繹してくる。

天皇の存在という事実を、日本国憲法に書いてあるという事実判断を根拠とするか、神話の世界を根拠とするかも、価値二元論か、価値一元論かの違いだ。

さらに、日本国憲法に天皇の存在を書いてあるでは終わらない。
天皇を日本国憲法で作る合理性は、有るのか。これを問わねばならない。この問いは、事実判断から論理的推論で演繹はできない。情緒的価値判断だからだ。

では、情緒の数だけ、答えは拡散し、一意に収束し得ないか。

この問いに答えることができれば、あなたが価値二元論を地肉化しているかどうかわかる。自然主義を克服しているかどうかわかる。


●【仮象問題(かしょうもんだい)というのがある。言葉の上だけで成り立っていて、実体がないのが仮象問題。
13:01 - 2016年9月7日 】
https://twitter.com/reef100/status/773370583220224001 )

仮象問題を使えば水の上も歩ける。「右足が水面に着く前に左足を出し、左足が水面に着く前に右足をだす」これなど典型的なお笑いに類する仮象問題だ。笑ってはいられない、政治の問題で、仮象問題は氾濫しているのだから。

「国を守る」これでたいていの人は、うなずく。そして、この情緒的価値判断から次を演繹する。軍隊を持て!敵が攻めてきたときのために。国を守るために!だが、「国を守る」というのは仮象問題なのだ。

国を守るの「国」をとは何を指しているのか。「守る」とはどういうことを指しているのか。

戦争で国を守るためにとか、戦争で日本を守るためにとか言えば、もう言葉の上で国を守るとか、日本を守るとかいうことの実体があるような気になっている。しかし、戦争で国を守れるのか?日本を守れるのか?その場合の国とか日本とか守るというのは何を具体的に指しているのか。

少なくとも、核ミサイルの飛来を迎撃する能力などない。

「20150122_【日本を守る】についての考察
2016年03月20日 13:50 」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6172614&id=77644750




●【本質について議論するとき、何を認識目的としているのか(何を認識しようとしているのか)、その為にどんな視点を採用したのか、これにより、本質は変わってくる。
19:22 - 2016年9月7日 】
https://twitter.com/reef100/status/773466515404419072 )

何を認識目的としているのか、自覚せず、その為にどんな視点を採用したのか、自覚せず、議論しても、かみ合わない。


●【論理学の言葉の定義理論には、三つある。用法定義、本質定義(経験的意味定義。)、約束定義(あらかじめこの言葉はこういう意味で使いますという約束。学術用語はこれ。)
19:26 - 2016年9月7日】
https://twitter.com/reef100/status/773467571047665664

「この言葉はこういう風に使われています」という用法定義。「この言葉の意味はこういうものです」という本質的意味定義(=本質定義)。本質的意味定義は、その個人の経験的な意味定義であり、情緒的価値判断。

本質的意味定義の用語で、情緒的価値判断から情緒的価値判断を演繹し出したら、もう、まともな議論にはならない。

情緒的価値判断を事実判断に還元し、すなわち、事実判断から情緒的価値判断を演繹し、同じようにして、雪だるまのように転がして膨らんだ議論は、もう、まともな議論にはならない。かみ合わない。

しかも、その議論をする認識目的を自覚せず(何を認識しようとしているのか自分で自覚せず)、どのような視点を自分は採用しているのかも自覚せず、なんて主張をしはじめてきたら、そういう相手とはまともな議論にはならない。かみ合わない。

しかも、言葉だけが有って実体のない議論をしてきたら、もう議論にはならない。

ところが多くの日本人というのは、他人相手のときばかりでなく、自分自身の思考において、そういう思考スタイル、思考癖になっている。

この用語はどういう定義で自分は話しているのか、本質的意味定義の世界で話しているのか、情緒的価値判断から情緒的価値判断を導出しているのか、事実判断から情緒的価値判断を導出しているのか、事実判断から事実判断を導出しているのか、思考時や議論時にはこの自覚が必要だ。

事実判断から事実判断を導出できる、それを机上で発見したら理論だ。少なくともここではそれを理論と約束定義しよう。その理論を現実に投影し、社会的に、あるいは歴史的に、立証できたなら論理だ。少なくともここではそれを論理と約束定義しよう。

理論を議論することは、議論としては有意義だ。論理を発見できたなら、すばらしい。その論理は人類に役立てることができる。




●【情緒的価値判断から情緒的価値判断を導出するなら、 白から白でも白から黒でもどんなカラーをも導出でき る。この場合、論理的推論は一意には定まらない。結 論はどこにでも導ける。 20:14 - 2016年9月7日 】
https://twitter.com/reef100/status/773479604925313025 )




●【およそいかなる演繹的推論においても、前提のいずれ にも含まれていない要素は結論にも含まれえない、こ れは論理上の一般準則のコロラリー(当然の帰結)と されるものだ。
7:35 - 2016年9月8日】
https://twitter.com/reef100/status/773651015837032448 )

自然権を認めない政治勢力が、いかに長い舌で理屈づけようとも、結論に自然権はない。


●【自然権、自然法というものは、物理法則のように、天 体運動のように、事実として、この世に実在するの か、それとも、人間の情緒によって生み出した価値な のか。前者なら自然法は事実判断の範疇だ。後者な ら、情緒的価値判断の範疇だ。前者なら、価値一元 論(自然主義)だ。後者なら価値二元論だ。
7:51 - 2016年9月8日 】
https://twitter.com/reef100/status/773654936982695936 )

価値二元論を主張する立場で、自然権や自然法を主張するということは一見、矛盾する。「ア・プリオリに先験的にこの世に自然権、自然法という絶対的な価値が存在する」というなら、初めに神ありきの宗教と変わらぬことになる。価値一元論(自然主義)でしかありえないことになる。

【自然権、自然法の主張が自然主義(価値一元論)】ならば、自然権、自然法を唱える者は、【「事実と価値は二元のもので、事実から価値は論理的推論で演繹できず、価値から事実は演繹できない」とする価値二元論(価値情緒説)者】ではありえないことになる。

自然法のラートブルフは、価値一元論者(自然主義者)のレッテルを貼らなければいけないことになる。自然権、自然法を主張することは、価値一元論者(自然主義者)ということと同値になる。ほんとうにそうなのか?

自然法のラートブルフはどのようにして【自然法を主張する立場】と【価値二元論の立場】が矛盾しないものであることを実現したか。ラートブルフは「私は自然法に帰依する」と言った。帰依という概念の導入で、ラートブルフは自然主義を凌駕した。

近代市民革命で樹立した近代社会契約では、誰が国を作ったかというと「国は、人民が作った。人民の自然権を守るために人民が国を作った」ということになっている。「国家を作ったものは人民である。人民の自然権を守るために人民が国家を作った」という定義をしている。

「自由なる個人個人が自然権を守るために互いに契約して、即ち社会契約して国家を作った」ということになっている。この主張はなにも過去へタイムマシンで旅行してみてきた人物がいるのではない。約束定義なのだ。こういうことにしましょうという社会契約(=約束定義=帰依)だ。

近代社会契約の国家の約束定義は、イコール社会契約であり、イコール帰依である。論理学での用語の定義理論には、用法定義と、本質定義(経験的な本質の意味定義)と、約束定義(学術用語はこれにあたる)とあるが近代社会契約の国家の定義=社会契約は本質定義ではなく約束定義だ。

なぜこの約束定義が必要だったのか、この約束定義を根幹におかなければ人民の自然権が守れないからだ。人民を人間として守るには自然権が最高位のものとしての位置が必要だったのだ。ア・プリオリに存在する自然権というものへの帰依、約束定義が必要だったのだ。これを源泉として、人民は国家を約束定義し、国家権力を約束定義し、憲法を約束定義し、立憲主義を約束定義し、人民主権を約束定義し、democracy(デーモス(民衆)によるクラトス(支配、権力)を、約束定義したのだ。そして、その系譜に基づいて現代があり、今がある、日本国憲法がある。

日本国憲法は近代社会契約の理念に基づいてできている。

1.価値一元論(自然主義)は、学問の世界では間違いであることが発見され、世界的に自然主義ファラシー(自然主義誤謬)の運動が19世紀から20世紀初頭にかけて吹き荒れ、あらゆる学問は、なぜ、それが演繹されるのかを遡及しこれ以上遡及できないところまでさかのぼってそこを原点として、そこから用語の【約束定義】をして演繹してきだ。体系化してきた。理屈抜きで初めからそうなんだ、文句あるか!というごとき学問から、これ以上遡及できないものは、証明できないけれど真理であると約束定義して。未解明は未解明として。

よって学問は自然主義を克服したものが近代の学問で、自然主義を克服してないものは古典と位置付けられている。

用語の定義もばらばらだった学問は、自然主義ファラシーの運動を世界的に嵐のようにやって、体系化し、再構築してきた。それが近代以後の学問だ。

近代の学問は自然主義を克服したが、価値一元論を克服したが、事実と価値を分けて、事実の連関をこれ以上証明できないところまで遡及し、証明できないものは証明できないものと位置付けて約束定義し、用語も約束定義し、事実の演繹をして再構築してきたが、即ち自然主義を克服したが人間の脳みそは、その思考回路は、自然主義を克服できないで戦後まできたのだ。

近代市民革命をリードした啓蒙思想家は、別に、自分たちのいってることが約束定義だと、自覚していたものばかりではあるまい。価値一元論の立場で、自然権を主張したものがほとんどだろう。国家の約束定義も、即ち社会契約も、どこまで約束定義だと自覚していたかは疑問だ。だが、
社会契約という用語を使用していることに、顕在意識にはあろうがなかろうが、その社会契約なるものが、まさに、契約である、互いに正しいこととみんなで認めた、みんなでオーソライズしたものとしましょうというこの契約であるという言葉にうきぼりにされていると思う。これが価値一元論、価値二元論という切り分けで分析されるまでには、自然主義ファラシーの通過だけではだめだった。ナチスヒトラーのファシズム、独裁による悲劇、日本軍国主義のファシズム、独裁による悲劇、を批判する戦後を待たねばならなかった。
迫害され亡命した学者が中心となって、戦後、価値二元論を樹立した。
ここには、ファシズムを防ぐエッセンスがある。人間の思考のメカニズムを、事実と価値にわけてこれを二元とし、神話が現実となって、現人神らが暴政をふるう、価値一元論の嵐がふきあれるのを、拒否するエッセンスがある。

●【理論と論理】

「価値二元論は、事実の連関に、価値を意図的に混入させて、曖昧主義に導くことを許さない。
だから、社会科学における、事実の連関という視点でみれば、
ここを蹴飛ばせばあそこが飛び出るという事実の連関(理論とここでは約束定義しよう)、即ち理論を発見し、その理論を社会的に現実に投影して、その通りだと証明できた時、(それを論理とここでは約束定義しよう)、その論理が人間の解放、社会の発展に役立つという原理を保障している。 」で述べた通り。

これは、現代の日本にもっとも必要なものだ。

インテリゲンチャやメディアや政治家が、情緒的価値判断を故意に混入させて事実の連関を直視しない。
われわれは、自然権を守る理論も論理も、戦後から前進することなく、停滞、むしろ退化させている。

democracy(デーモス(民衆)によるクラトス(支配))を実現するどころか、
democracyに到達したこともない日本人が、democracyからどんどん引き離されていく。

多数決がdemocracyだ、democracyとは間接民主制(議会制民主主義)だという誤った洗脳がなされ、近代市民革命で樹立した近代社会契約の遺産をものにすることなく、どんどん中世化している。

これでは、自然権をまもる近代社会契約の理論、論理、矜持というものを人民が獲得することなく
ファシズに一直線に放り込まれる。

近代市民革命を経験してないから、近代社会契約の理論も論理も矜持も起きるはずがないというのは、逆なのだ。近代社会契約の理論も論理も矜持も自覚しないから、日本人の社会も脳みそも現代版中世で、近代市民革命が起こらないのだ。

はじめて近代市民革命を実現した時代に比べて、今は格段にやりやすいのだ。二番煎じはなんでも格段に容易なのだ。しないだけだ。すればいいだけだ。

【了】

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