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2016年08月29日04:22

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感動の責任

バリバラ出演者「感動は差別」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4165156


障害者が主人公の感動モノドキュメンタリー、どう思いますか?とのアンケートに、
健常者の半数近くは「いいと思う」って答えて、障害者は9割が「好ましくない」と答えてるこの現実。

だけどこの障害者側の「9割」っていうのは額面通りに受け取るべき数字ではないかもしれないなって思う。

だってこんな「ドキュメンタリーと言いながら障害者としての真実の姿をほとんど映し出さない、商業的に都合のいい部分だけを切り抜いて継ぎ接ぎした安っぽい感動モノ」としてドキュメンタリーが作られてたら、あたかも「すべての障害者がこうなんです」とばかりに嘘八百で作られてたら、そりゃ障害をもつ当事者達が「感動は差別だ」みたいに感じて不快に思うのは当然だもの。

でもそれは「感動ドキュメンタリーだから」じゃなくて、「感動ドキュメンタリーとして質が低い、薄ら寒い拝金商売だから、そんなものに利用されたくない」っていうのが実際のところなんじゃないかと思う。

テレビ局やそれに関連する企業がお金を沢山稼いでウハウハするために、安直にテキトーに作ったものだから、それが透けて見えちゃうから観てうんざりした気持ちになるだけで。

それが本当に障害者の人の人生を切実に掘り下げて、人生観を揺るがすほどの感動を呼び起こす質のものだったら、健常者側も障害者側も、その作品に対してまた別の印象を抱くんじゃないかと思う。

「障害者の感動ドキュメンタリー」という割に、視聴者の理解度が高まるほど障害者の本質を掘り下げてもいないし、感動だってこれまで散々観てきた「感動系作品」の焼き増しみたいなアレで。


感動には本来責任が伴うんだ。


本当に心を動かされたと言うのなら、それはその人の人生に正しく反映されるべきなんだ。

だけど現実には安穏とした空間でテレビの前にふんぞり返ってぼんやり眺めて、はい感動。

一応感動しましたけど、この感動を糧に明日から頑張ろう、なんて事も一応軽くは思うけど、ぶっちゃけ明日には多分忘れてます。

明日はギリギリ覚えてても、一週間後にはほぼ間違いなく忘却の彼方です。
一週間前の夕飯に何食べたのかなんて思い出せないのと同じように。

その程度の感動。

作る側も作る側で「お金目当て」なのがもろに透けて滲んじゃってるし、見る側も見る側で手軽にインスタントラーメン食べる感覚っていうか、「感動する事」自体がもうなんだかインスタントなんだ。

障害を抱えて、様々な現実的困難や差別に日々晒されて、多くの事柄が自分の望むようにできない中で、必死にそれでも自分に出来ることを探して、見つけて切実に生きてる人たちからすれば、そんなインスタントな感動商売のために都合よく利用されるなんてたまったものじゃないだろう。

肝要なのは感動ドキュメンタリーはあり?なし?みたいなほとんど何の意味も為さない上辺の評定じゃなくて、感動が本来担うべき責任のあり方をこそ問うべきだと思う。

本当に感動したなら、心で何かを強く感じて、感銘を受けたなら、それを何かしらの行動で示すべきだ。
その人生に何かしらの形で反映されるべきだ。

その「感動した何か」から得たものを自分の中で咀嚼して、吸収して、一生ものの糧にして、忘れないように反芻して、次の世代に受け継ぐための努力をするべきだ。

本当の意味で感動するって多分そういうこと。

そこまでする気になれないなら、それはやっぱりインスタントな感動なんだと思う。

そして作る側も作る側で、本気で感動を産み出そうと思うなら、もっとテーマを掘り下げて、売れてる俳優に金なんかかけなくていいからもっと作品の命と言える部分に力と金を注いで、そのテーマが受け手の感性に響くかどうかは別として「少なくとも膨大な熱量によって作られた素晴らしい作品だと言うことはしっかり伝わってきた」と思ってもらえる程度のものを作るべきだ。

「命を賭して作り上げられた作品」に触れた経験がある人なら、俺が言ってる事解ってくれるんじゃないかと思う。

思想とか好みとかテーマとかジャンルとか流行とかそんな事一切関係なしに、理不尽なほどの衝撃で身体と魂を内側から揺さぶって震わせる、それ。

「なんとなく泣ける」とかそういう次元じゃなくて、その感動に触れた瞬間ありとあらゆる感情と思考がビッグバンのように頭の中で膨張して、苛烈なほどの熱量を帯びたその膨大な情報達を正しく配列し収束させていく、その労力を惜しいとすら感じず、その作業を終える頃にはそれまで生きてきて漠然と形にならなかった情念がその時はじめて一つの造形を結んで、確信に近い答えが自分の内に生じる。

そんな稀有な現象を促す物事。

昨今の感動ドキュメンタリーの多くがそういう情念を誘発する程のクオリティに達してないから多くの人に「こんなもの・・・」って言われちゃうんだと思う。

そしてそんな「感動ドキュメンタリー」が商業製品化されすぎて、インスタント化が進みすぎた頃、多くの観衆はふと気づく。

これ、ぶっちゃけ自分の人生のほうがよっぽど感動ドラマじゃね?って。

古来、文芸が栄えた頃、感動をテーマに据えた種のエンターテイメントというのは、普通の人が普通に生きてたら到底味わえない「特別な感動」を創出するもの、という意味合いだったはずなんだ。

だけど今はもう「感動作品」の作り方がルーチン化、テンプレ化されすぎて、それが生み出す感動の熱量も本当に微々たるもので、ともすれば「視聴者の人生」のほうがよっぽど感動に満ちちゃってる現実。

「障害者モノの感動ドキュメンタリー」がダメなんじゃなくて、
障害者の真実の姿に迫る事もなく、魂や人生を揺さぶるほどの哲学を内包してもいない、短絡的でポップな感動と若手俳優の人気にすがるだけの珍劇だから多くの人が見放してるだけなんだと思う。

もしいつか本当の感動ドキュメンタリーが作られる事があれば、
そこには必ず愛があると思う。

無論24時間テレビで毎回テーマとして掲げる「愛」とは別種の愛。

人が人を慈しむ心だ。

「あー、可哀想ね。泣けちゃうわー」なんっつって明日には忘れる程度の慈しみなんかじゃなく、
その瞬間が深夜だろうが明日朝から仕事があろうがそんな事関係なしに今すぐコンビニに走ってドナーカード取ってきて「脳死時の提供臓器」欄に片っ端からチェック入れる、そうせずにはいられないほど心を突き動かす愛だ。

同情とか感情移入とかそういう安直な愛情じゃなくて、観て涙を流してすっきりする、そういう心のお薬的なものでもなくて、それはもっと静かに、心のとても深い部分で長い間燃え続けて、嫌が応にも人生に影響を及ぼすものなんだ。

「心のお薬」的なお手軽感動系作品が駄目だって言ってるわけじゃない。
そういうものもあっていいし、そういうものを好む人がいていいし、ただ「そういうものだらけ」になってしまうと、人生を本当の意味で充実させるための切実な作品を欲してる人が、運命の作品に出会うのがとても困難になってしまう。

量産される「雑多な作品」があまりにも氾濫しすぎて、そのうちのどれが本物で、自分に響くものなのか、それが存在したとして、掃いて捨てるほどあるインスタント作品の山に埋もれて見つけられなくなっちゃうんだ。

昨今はインスタントな感動コンテンツがあまりにも溢れ返り過ぎてて、うっかりすれば感動の本質を見失いそうになるけど、感動そのものが薄っぺらいような錯覚に陥りそうになるけど、どうか忘れないで欲しいと思う。

本当の感動は、人が人として生きる上でとても大切な感情だから。
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