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2016年08月08日21:28

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☆☆☆戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。全文「象徴の務め果たしていくことが難しくなるのでは」

戦後七十年という






大きな節目を過ぎ、






二年後には、






平成三十年を






迎えます。






全文「象徴の務め






果たしていくことが






難しくなるのでは」






皆さん、こんにちは!



マリータです。



訪問ありがとうございます。



今年は、1941年12月8日に
日本の空母機動部隊が
アメリカの真珠湾攻撃奇襲した、
泥沼の太平洋戦争終結から、
戦後71年目に突入しました。
1945年8月6日に広島、
8月9日に長崎に人類史上初、
実戦で原子爆弾が投下され、
多くの人々が亡くなりました。



8月15日に昭和天皇による
玉音放送による、終戦宣言。
1945年9月2日、アメリカの戦艦
ミズーリ上で無条件降伏に調印し、
日本は事実上降伏しました。
その後日本は、マッカーサー元帥率いる
アメリカのGHQの統制下におかれ、
東条英機ら戦犯は裁かれ、
日本は軍国主義を解体され、
民主主義の国に生まれ変わりました。



当時マッカーサーは、昭和天皇を
とらえて処刑しようかと
思っていた。当時の独裁者は、
自らの命惜しさに、
命乞いをするからだ。



昭和天皇が、「この戦争の全責任は、
私にあります。私の命はあなた方の
処遇にゆだねる。国民を助けてほしい
食料をお願いします。」と言った。



GHQのマッカーサーは感動し、
スクッと立ち上がって、
「私は、日本で一番の
紳士に出会った」と
いたく感動した。
アメリカとしては、
北には、ソビエト連邦率いる
共産主義が迫っていたので、
日本の共産主義化を防ぐために、
民主主義国家にしたかった。



連合軍がナチスドイツを破り、
戦後、戦勝国による、
敗戦国に対する処遇が話し合われた。
アメリカのトルーマンと、
ソビエトのスターリンが対談するも
意見が合わず、戦後世界は、
欧米率いる資本主義陣営と、
ソビエト率いる共産主義陣営の
二つに分かれた。



戦後、ナチスドイツの核兵器技術や、
大陸弾道ミサイル、ジェット機などの
技術の鹵獲が始まり、冷戦が始まった。



日本が必至になって、
満州国を建国したりして、
ソ連の南下を防いで
いることに気が付いたのは、
後の祭りだった。



20世紀末ソビエトが崩壊し、
東西ドイツを分断していた
ベルリンの壁も壊れて、
テロと戦う世界になりました。



今年の広島原爆式典も過ぎ、
明日には長崎の原爆の日になります。



戦後71年目という節目を迎え、
5月の伊勢志摩サミット後に、
アメリカのオバマ大統領が
広島平和記念公園に来日したのは、
大きな出来事でした。
そして今日、「天皇陛下の
お気持ち」が発表されました。
天皇が国民の前で長く
自らの気持ちを語るのは、
1945年8月15日の昭和天皇の
玉音放送以来ではと思った。




老化は人間の宿命。
日本が高齢化社会するにあたり、
これ以上の象徴天皇としてが
困難な場合は、生前退位も
ありかと思います。
時代に応じて、国のあり方も
変えていくことも大事だと思う。




(動画)天皇陛下「お気持ち」表明 



ビデオメッセージで公開(16/08/08)



以下平成天皇のお言葉です。



戦後七十年という大きな節目を過ぎ、
二年後には、平成三十年を迎えます。



私も八十を越え、体力の面などから
様々な制約を覚えることもあり、
ここ数年、天皇としての
自らの歩みを振り返るとともに、
この先の自分の在り方や務めにつき、
思いを致すようになりました。



本日は、社会の高齢化が進む中、
天皇もまた高齢となった場合、
どのような在り方が望ましいか、
天皇という立場上、現行の皇室制度に
具体的に触れることは控えながら、
私が個人として、これまでに
考えて来たことを話したいと思います。



即位以来、私は国事行為を行うと共に、
日本国憲法下で象徴と位置づけられた
天皇の望ましい在り方を、
日々模索しつつ過ごして来ました。
伝統の継承者として、
これを守り続ける責任に深く思いを致し、
更に日々新たになる
日本と世界の中にあって、
日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、
いきいきとして社会に内在し、
人々の期待に応えていくかを考えつつ、
今日に至っています。



そのような中、何年か前のことに
なりますが、二度の外科手術を受け、
加えて高齢による体力の低下を
覚えるようになった頃から、
これから先、従来のように
重い務めを果たすことが困難になった場合、
どのように身を処していくことが、
国にとり、国民にとり、
また、私のあとを歩む皇族にとり
良いことであるかにつき、
考えるようになりました。



既に八十を越え、幸いに
健康であるとは申せ、
次第に進む身体の衰えを考慮する時、
これまでのように、全身全霊を
もって象徴の務めを果たしていくことが、
難しくなるのではないかと案じています。



私が天皇の位についてから、
ほぼ二十八年、この間(かん)私は、
我が国における多くの喜びの時、
また悲しみの時を、
人々と共に過ごして来ました。



私はこれまで天皇の務めとして、
何よりもまず国民の安寧と
幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、
同時に事にあたっては、
時として人々の傍らに立ち、
その声に耳を傾け、
思いに寄り添うことも
大切なことと考えて来ました。



天皇が象徴であると共に、
国民統合の象徴としての
役割を果たすためには、
天皇が国民に、天皇という
象徴の立場への理解を求めると共に、
天皇もまた、自らのありように深く心し、
国民に対する理解を深め、
常に国民と共にある自覚を
自らの内に育てる必要を感じて来ました。



こうした意味において、
日本の各地、とりわけ
遠隔の地や島々への旅も、
私は天皇の象徴的行為として、
大切なものと感じて来ました。
皇太子の時代も含め、
これまで私が皇后と
共に行(おこな)って来た
ほぼ全国に及ぶ旅は、
国内のどこにおいても、
その地域を愛し、その共同体を
地道に支える市井(しせい)の
人々のあることを私に認識させ、
私がこの認識をもって、
天皇として大切な、国民を思い、
国民のために祈るという務めを、
人々への深い信頼と敬愛を
もってなし得たことは、幸せなことでした。



天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、
国事行為や、その象徴としての
行為を限りなく縮小していくことには、
無理があろうと思われます。
また、天皇が未成年であったり、
重病などによりその機能を
果たし得なくなった場合には、
天皇の行為を代行する
摂政を置くことも考えられます。
しかし、この場合も、天皇が十分に
その立場に求められる
務めを果たせぬまま、
生涯の終わりに至るまで
天皇であり続けることに
変わりはありません。



天皇が健康を損ない、
深刻な状態に立ち至った場合、
これまでにも見られたように、
社会が停滞し、国民の暮らしにも
様々な影響が及ぶことが懸念されます。
更にこれまでの皇室のしきたりとして、
天皇の終焉に当たっては、
重い殯(もがり)の行事が連日
ほぼ二ケ月にわたって続き、
その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、
一年間続きます。



その様々な行事と、
新時代に関わる諸行事が同時に
進行することから、行事に関わる人々、
とりわけ残される家族は、
非常に厳しい状況下に
置かれざるを得ません。
こうした事態を避けることは
出来ないものだろうかとの思いが、
胸に去来することもあります。



始めにも述べましたように、
憲法の下(もと)、
天皇は国政に関する権能を有しません。
そうした中で、このたび我が国の
長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、
これからも皇室がどのような時にも
国民と共にあり、相たずさえて
この国の未来を築いていけるよう、
そして象徴天皇の務めが
常に途切れることなく、
安定的に続いていくことをひとえに念じ、
ここに私の気持ちをお話しいたしました。



国民の理解を得られることを、
切に願っています。



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