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2016年08月08日18:26

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「お言葉」がえぐった国の矛盾

天皇陛下の「お言葉」全文
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4133613

日本国憲法第一章は「天皇」であって、第一条は、次のように定められている。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

この条文は、章のタイトルこそ「天皇」であるが、同時にこれは「国民主権」を定めた条文でもある。三大基本原理の一つである「国民主権」を直接定めた条文はこれのみであり、国民主権の根拠条文となっている。

知ってのとおり明治憲法では天皇主権であり、天皇の地位は象徴などという生易しいものではなかった。第3条にあるように「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という存在だった。敗戦の折、当時の国家指導者たちがもっともこだわったのはこうした「国体」の護持にあった。したがって、日本国憲法第一条というのは、明治憲法との断絶を最も鮮明にしている条文だと言えるだろう。

そして国民主権と象徴天皇制とは密接にして不可分の関係にあるとも言える。天皇主権に代えて国民主権を打ち立てれば、天皇制は象徴天皇制としてしか存続し得なかった。

今回の現代版玉音放送では、この象徴天皇制への今上天皇自身の強烈なこだわりが伺える。

「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇」
「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たす」
「天皇という象徴の立場への理解」
「天皇の象徴的行為として」
「その象徴としての行為を」
「象徴天皇の務めが常に途切れることなく」

今上天皇自身は、過去にも象徴天皇制こそ日本の伝統的天皇のありように適合しているとの認識を示したこともある。それが改めて確認できる「お言葉」であった。

以前にも日記で言及したが、私は敗戦当時の国家指導者にとって「押しつけ」られたのは、まさにこの第一条であったろうと思っている。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と考えていた人々にとって、国民主権と象徴天皇制など、ほとんどまがい物だったのではあるまいか。

その「押し付け」の最たる条文を、今上天皇ご自身がこうまで積極的に評価しているとき、天皇を「神聖ニシテ侵スヘカラス」と考える人々は一体上記の「お言葉」をどのように受け止めるのだろうか。これはこうした人々の思想的矜持を、真正面から問うてくる思想的リトマス試験紙である。

自称天皇主義者たちの中には、外見上は天皇の神聖不可侵性を強調しつつ、その実、天皇を自分たちの好みに合うような国家統合のための、都合のいい道具立てとして利用するだけの徒輩も多いのだ。先の大戦時にも、こうした連中が天皇の虎の威をかる形で国民を敗戦に導いたのである。

本当に「神聖不可侵」ならば、今上陛下の「お言葉」を厳粛に受け止め、国民主権と象徴天皇制を第一条に掲げた現行憲法に「押しつけ」などと唾する不敬は慎んでもらいたいものである。

他方で主権者たる国民は、もう一つの憲法上の基本原理、「基本的人権の尊重」と「天皇制」の矛盾にも向き合うべきであろう。なぜ天皇には一般国民のような基本的人権(自由権・社会権)が認められていないのか。近代憲法にあって「世襲」が堂々と規定されるなど、本来異常なことなのだ。

日本国憲法の第1条から第8条までの規定は、近代憲法という観点から見ると、決して「憲法的」とは言えない条文なのだ。近代憲法としての日本国憲法は、考えようによっては第9条から始まっていると言えなくもない。

天皇自身が意思表示するだけで、こうまで繊細な問題を惹起する事実は、我々が当然のように享受している自由や権利が、天皇には認められていないということを表している。そういう存在が、自由で天賦人権を持つ日本国民の「象徴」というのだから、歪な話もあったものではないか。私には壮大なブラックジョークに思えてならない。

日本国民はこたびの「玉音放送」が突きつけた難問をどう受け止めるだろうか。
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