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2016年08月06日20:51

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『シン・ゴジラ』大ヒットで“エヴァの呪縛”から解放された庵野秀明

『シン・ゴジラ』大ヒットで“エヴァの呪縛”から解放された庵野秀明
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『エヴァンゲリオン』シリーズの庵野秀明が脚本・総監督を務めた『シン・ゴジラ』が公開4日間で興収10億円を超える大ヒットを記録している。一部には「明快な怪獣映画が観たかった」「政治の話が中心で内容的に子どもには理解しづらい」といった否定的な意見はあるものの、全体的な観客からの作品評価はおおむね高く、ネット上では興奮した様子で早くも複数回観たと語る観客の口コミも散見される。また、シネコンでの1日の上映回数も非常に多く、さらに4DX、IMAXといった、鑑賞料金の高いプレミアムシアターで観たいという声も高まっていることから、1989年以降に製作された『ゴジラ』シリーズの中では最大のヒット作となった1993年の『ゴジラVSモスラ』(配給収入22億円=推定興収38億円)、さらには1998年に制作されたハリウッド版『GODZILLA』(配給収入30億円=推定興収50億円)を超える興行成績も期待されている。

【写真】東宝スタジオ前の庵野秀明総監督と樋口真嗣監督

◆『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』製作でうつ状態になっていたことを告白

 そんな結果を残した庵野秀明総監督だが、その道のりは決して平たんなものではなかった。本作制作に向けて寄せたメッセージ内で「『エヴァ』は魂の削られ方が激しい」と語った庵野は、2012年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』公開直後に鬱(うつ)状態になったことを告白し、「6年間、自分の魂を削って再びエヴァを作っていた事への、当然の報いでした」と振り返る。

 『エヴァンゲリオン』シリーズは庵野の人生観が色濃く反映された、というよりも庵野そのものと言うべき作品であり、それゆえに作品が完成するたびに完全燃焼を繰り返してきた。しかし、2007年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』第1作公開からおよそ9年という歳月を経て、いまなお未完のプロジェクトとなっている『新劇場版』に対するファンの飢餓感は、『序』『破』『Q』と作品を重ねるごとに高まっている。それゆえ、庵野が公のイベントなどに登場するたびに、「そんなことよりも早くエヴァの新作を」というファンからのプレッシャーの声が起こるのは、ある種の恒例行事のようになっていた。

 そんななか、2013年1月末に、庵野は『シン・ゴジラ』総監督のオファーを受ける。エグゼクティブプロデューサーを務めた山内章弘氏は、「日本のゴジラを復活させるにあたり、日本を代表する監督でなければならない。庵野さんは日本を代表するクリエーターであり、実写の経験もあり、さらには特撮への愛情・造詣も深い」とその理由を説明する。

 もちろん『エヴァンゲリオン』の制作を中断して『シン・ゴジラ』の監督を受ければ、エヴァの新作を待ち望むファンからの集中砲火を浴びることは必至。庵野自身、最初はそのオファーを「エヴァもあるし、できません」と固辞したというが、盟友・樋口真嗣監督らの説得によりオファーを受けることを決意。その理由を「エヴァ以外の新たな作品を自分に取り入れないと先に続かない状態を実感し、引き受ける事にしました」と説明。その切実なコメントからも、まさに不退転の決意で本作に向きあったことが分かる。

◆アニメではなく“実写映画”でのヒット作を手に入れたことで次作制作を留保

 庵野と樋口のふたりが新しいゴジラを手がけるというニュースは大きな驚きと期待感とともに広がった。しかし一方で、デジタルビデオの映像を大胆に導入した『ラブ&ポップ』や、アニメーションの手法で実写を撮影した『CUTIE HONEY キューティーハニー』など、これまで映像的には意欲的な作品を発表しながらも、とくに実写の分野では『エヴァ』に匹敵するような大ヒット作を生み出していたわけではなかった庵野と、近作の実写『進撃の巨人』作品評価がそれほど芳しくなかった樋口とのタッグに心配の声があがっていたのも事実。さらには、近年の庵野が徹底している情報統制の影響もあり、新作の情報がまったく世間に流布しなかったことも「ゴジラよりもエヴァを」という声につながっていた部分もある。

 しかし、実際にふたを開けてみれば、そこには『エヴァ』ファンの飢餓感を満たすような作品世界が展開されており、そこに『エヴァ』との共通点を考察する熱狂的なファンが続出。いまだ未見の人たちのなかには『シン・ゴジラ』に疑心暗鬼な層が少なからずいるものの、庵野をめぐる状況は好転しているようにも見える。

 本作は、複数の会社が出資しあってリスクを分散する製作委員会方式をとらずに、東宝が単独で制作。複数のスポンサーの意向をとりまとめる必要がない環境は、作家性の強い庵野にとって好条件であったことは想像に難くない。事実、本作の撮影前に「この映画は珍しく東宝がお金を出してくれました。それを無駄なく使いたいと思います。ギリギリまでがんばります!」とうれしそうに切り出した庵野は、スタッフに対して「何よりもおもしろい日本映画を目指してやっていきたいと思います!」と力強く宣言した。その結果、『ゴジラ』があったからこそ『エヴァンゲリオン』があるのだ、という庵野の『ゴジラ』愛が非常に色濃く出た作品になった。

 それと同時に庵野ファン以外の一般層にとっては、これまで庵野秀明=エヴァであったイメージが、今回の『シン・ゴジラ』の成功によって変わった。庵野にとっては、実写の分野でも一般層に訴求するような、もうひとつの代表作を獲得したということも大きいだろう。この“実写ヒット”を手に入れた庵野は、“エヴァ以外も撮れる”“実写ヒットを生み出す作家”であることを改めて世に示し、次作制作を留保したといえる。今後、より実写制作の幅を広げていくことへのファンの期待も高まっていることだろう。そんな庵野がどんな『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』完結編を見せてくれるのか。より多くのファンからの注目が集まっている。
(文:壬生智裕)
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この映画のヒットで完全に、日本映画のトップの位置を確立したなぁ、という所感だ。小僧、小僧とばかりにおもっていたら、いつの間にやら大家かよ、という声が聞こえないでもない。

いずれにしろ、ヒットするということ、収益で黒字を出すということは、作家性だの個性よりも、さらに言えばオリジナリティよりも、または歴史に残るような作品、という野望よりも、ずっとずっとずっと重要であることが分かる。

100年後に再発掘される、というパターンも捨てがたいものがあるが、やはり生きている間にその時代の第一人者になるということは重要である。

思えばドストエフスキーも食うために作品を書いたのである。もちろん、そういう正宗白鳥みたいなことを言えば、秀雄くんから怒られてしまうのだろう。

だが、死後に名声がはっきりしているとか、未来から振り返れば、この作品こそが、その時代を色濃く表現したものである、というのはたやすいものである。しかし、過去を振り返ったところで、その時代というものから逃れるわけではない。

民主主義には民主主義の呪縛があって、我々が、奴隷制度の美しさを謳歌したり、幼女を侍らす楽しさを評価することは出来ないのである。もちろん、言論の自由とは、そういうものを含めて、認めるところが強さであり、そのただ一転をもって、もっとも長く生きながらえる価値であると考えられる。

いずれにしろ、監督として大成したなぁ、という感想のほとんどは、このヒットによって裏付けられている。アニメでもヒット、実写でもヒット。しかも売れるだけならAKBでも売れる。

そこにメッセージ性がある。もちろん、正確にはメッセージ性があるように見える、である。実際のところ、エヴァンゲリオンとは何であるか。それについて誰も明確な回答など得ていない。当然それは作者も含めてである。

まだ探している途中だから、観客はそれを帰休し、作家もそれを止めることができないでいる。例えるならば、オオカミ少年がゴジラを見たと言い張っているようなものだ。村人の誰もが、それを見るまではあきらめきれないでいる。

名監督とはいわば、その時代を狐付きにする人だ。落ちてしまえば、あっと言う間に忘却されるかもしれない。ある時代に大流行した作品がいまや誰も覚えていないというのは珍しくないのである。

幾世代の時代を超えるか、どうかの分岐点がどこにあるかはわからない。分からないが、そこに何かがあると思わせることが大切だという気がする。それは面白さを凌駕する。

そしてエヴァンゲリオンに誰もが納得するこたえなどない。数学でいうところの解なしが答えである、ということでは誰も納得できないだろう。

だから、どういう解でも成立する。なぜならあらゆる解が不正解だからだ。これはある意味すごいはなしであって、作品は解釈の数だけ、いくらでも生み出せるということを意味している。

エヴァンゲリオンは既に庵野秀明の解釈でさえ、正解ではない。原作者でさえ、それは解釈の一つとしか見なせない。そういうところに来てしまった。別の人が同等の作品を示してみれば、それが新しい解となるだろう。悲しむべきは、未だに彼以上の作品を生み出せていないだけの話である。

そうすれば誰もそれ以上を、庵野秀明に見せろなどとは言わないだろう。いくつもある解釈のどれが好きか、という問題に収束するからだ。

するとエヴァンゲリオンは庵野秀明版というだけの話であって、彼がすべきは作品を終わらせることではなく、その世界観を次の人に託す、その意思を示せばいい。つまり、作品が続くこと、そして、多世界という概念の中で一つに過ぎないことを示す終わらせ方をすればいい。

思えば、この世界には、納得できなくて次を見せろという作品は数限りなくある。その最初はヤマトであろうか。プロデューサーの金銭的切実と作品の力が見事に相まった。おかげで人々が呆れるまで作り続けることになる。それがひとつの終わらせ方だ。

次にガンダムがある。多くの作家に開放することで、いくつものストーリーが生まれる。スピンオフの力に拡散によって、人々を満足させることができる。それはガンダムとはどういう世界であるかの模索といってもよい。どこまでならガンダムと呼びえるのかと試しているということでもある。実際、ファーストからターンAの世界観が同じガンダムで統一できるのはなぜか、という思索はもっとなされてもいいように思える。

エヴァンゲリオンはある意味では多世界の作品といえる、異なったエンディングが用意されても誰も避難などしない。ある意味ではゲーム的世界観ともいえる。何を選択したら、どういう世界になるのかは、誰にもわからない。ある状況で違った選択をしたら違ったエンディングを迎える。それは制作した年度が異なれば違う作品である、と呼んでもいい。

いずれにしろ、宮崎駿の丁稚だと思っていた庵野秀明が大監督になってしまった。それはアニメだけではなく、日本映画全体のである。なんだか大きく見えてきたよ。

まるで、それは東郷平八郎のようでもあるよ。




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