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木之花咲耶姫からのメッセージ
判断を手放すってどういうことなんですか?
判断しなかったら生きていけないような気がするんですが...(´-ω-`)
確かに人間世界では判断することが当たり前のようになっていますね。
そもそも判断というのは、商売などの取引において必要な能力です。
商売に必要な能力?
その通り。
商売や取引においては、それが本当に価値のあるものかどうかを見極めなければなりません。もし価値の無いものにお金を払ってしまえば、損をしてしまうからです。つまり価値を見極める行為が判断というものです。
このことからわかることは、判断というのは、損得や利害の上に成り立っています。
じゃあ、つまり、判断とは、自分が損するか得をするのか見極める行為ってことですか?
その通りです。
ものの良し悪しを見極めるための判断ならよいですが、それが対人関係に適用されてしまうと、問題が生じてしまうのです。
なるほどなるほど。
そもそも、人には、良し悪しはありません。
誰が優れていて、誰が劣っているのかなどありません。
それは、すべて、人間が勝手に「判断」しているだけです。
すべての人はみな、神の子であり、
神から与えられた優れた特性を持ち、
神から与えられた役割を担っています。
神から見れば、全員が完璧なのです。
優れた人というのは、何に対して優れているのか、
劣っている人は、何に対して劣っているのか、
このような価値基準はどこから来ているのか、よく見なさい。
どれもみな、誰かが決めた基準に従って判断されています。
その基準は何のためなのでしょうか。
えっと、社会?
その社会は何によって動いているのですか?
お金?
その通り。
お金によって動かされている社会では、すべてが取引になってしまうのです。
何が得で、何が損なのかという基準で見られてしまいます。
そうなれば、優れた人は社会にとって得であり、劣った人は社会にとって損ということになってしまいますね。
すべてが損得勘定の上に成り立っている社会では、弱者は切り捨てられ、福祉は後回しにされてしまいます。
これが、人が判断される社会の姿です。
な、なるほど...(;´Д`)
取引の世界では、人もものと同じように判断されてしまうということなのですね。
その通りです。
もしあなた方が、愛ある世界を創りたいと望むのであれば、少なくとも人に対する判断を手放さなければなりません。
普段から判断することに慣れている人々にとっては、判断を手放すことは恐ろしくてできないかもしれませんね。
なぜならその人々は、人の外見を見ることが当たり前になりすぎて、内側を見ることができなくなっているからです。
判断を手放すというのは、その人の内側に目を向けることです。
そもそも神は人を判断しません。
誰の上にも太陽は輝き、雨はふります。
誰もがみな神の恩寵を受けることができます。
なぜなら神は純粋な愛だからです。
愛は判断しません。愛は無目的であり、無意味です。
それは天に輝く太陽のように、ただただ、すべての人々に一様に注がれているものです。
相手が「◯◯だから愛そう」とか、「◯◯だから愛さない」というのは、損得勘定や利害の上に成り立つ取引であり、それは愛ではありません。
純粋な愛は、相手の状態に関係なく、理由なく、ただ注がれるものです。
愛したいから愛しているのであり、
愛さずにはおられないから愛しているだけなのです。
もしそこに何らかの恐れや依存があるのだとしたら、その愛が本物かどうか自らに問うてみる必要があるでしょう。
うううう....(;´Д`)
よいですか、判断を手放すということは、ありのままのその人を見るということ、そしてその人の内側を見るということ、そしてもう一つは、あなたの内側からわき起こる純粋な愛を、目的もなく、意味もなく、ただ与えるということです。
そこには取引はありません。
損得勘定もありません。
利害関係もありません。
期待もありません。
ただ、互いがありのままでおり、
互いの内側からわき起こる愛を与え合っているだけです。
そこには純粋な愛の循環があり、
それは尽きることがありません。
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