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2016年07月22日23:47

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西武線のなぞ!

ブログで西武新宿なぜ、新宿から離れているのか・・


が検索がたまにある・・


これは前に書いた


本当は、東口の駅ビルマイシティーの2階に乗り入れる予定だったが

時はすでに遅し、電車の長さが長くなり
駅ビルからはみ出てしまう・・・

ので、今のまま・・


要約すれば、そんなことだが


それ以上に西武線・・・

不思議ななぞがある・・


そもそもの
西武池袋線と新宿線の距離が近い・・・

違う会社ならいいが、同じ会社でそんな、近くにあって、いいの?と
思える・・・まあ、現在本社のある所沢から新宿、池袋、両方出てるようにした・・
と考えれば、いいが
そんな問題じゃない・・


近い路線は、国分寺線と多摩湖線にも、ある・・同じ鉄道で

なんで、同じ国分寺から、近いような距離に同じ鉄道の駅があるの?

と不思議に思うことがある・・

実はこれは西武鉄道という会社の歴史をみれば
すぐ、わかる・・・

まず、一番最初に出来た路線は
現在の国分寺線・・・


1895年国分寺〜川越間だこれは川越鉄道・・これが西武鉄道の元になる旧西武鉄道
現在の国分寺発川越行きが、その名残・・だ


これは当時出来ていた、甲武鉄道(甲州〜武蔵)現在の中央線に

小江戸と言われた川越の利便性で作られた・・・



そこに1915年、飯能と池袋を結ぶ、武蔵野鉄道が開通・・


つまり現在の池袋線の武蔵野鉄道と
新宿線のベースになる川越鉄道というもともとは別々な2つの鉄道だった・・ということ

これで、この2つの別々な会社が、交差する、所沢などのお客を
奪い合う形になる・・


ここで、直接、自社路線で、山手線につなぐ、武蔵野鉄道に分があり
旧西武鉄道の川越鉄道は、劣勢を挽回するために

1927年自社で、山の手線までの路線を開発
これは村山線・・現在の新宿線・・
とりあえず、これば高田馬場まで・・山の手線まで延ばすのが先行必着になった・・
この時点で新宿に伸びていれば、

一番上のような、問題はなかった・・

とりあえず、山の手線ということと、やはり、甲武鉄道が新宿、
武蔵野鉄道が池袋ということで、馬場を基点にしたのかもしれないが

で、微妙に近い、新宿線と池袋線という路線が出来た・・

この2つの会社で、熾烈な乗客の獲得競争があったという
駅員同士で殴り合いの喧嘩があったらしい・・

この池袋線と新宿線は、超、中の悪い者同士だったらしい・・



さらにそこに


1928年箱根開発(現在の国土計画)が
自社の宅地開発のため国分寺から萩山まで多摩湖鉄道を開通


用は、
池袋線の武蔵野鉄道

新宿線、国分寺線の川越鉄道・・この時点で西武鉄道を名乗っていた

多摩湖線の多摩湖鉄道


という合間見える3つの鉄道会社が熾烈な競争をしていたというのだ
これが現在の西武鉄道の元になった・・わけだ・・


で、この3社の競争は
まだ続く・・

現在の多摩湖が1902年に出来ると
各社が
その多摩湖まで
1929(昭和4)年、武蔵野鉄道が村山公園駅  西武球場駅
1930(昭和5)年、多摩湖鉄道が村山貯水池駅 西武遊園地駅
同年(旧)西武鉄道が村山貯水池前駅 西武園駅
を作るという

現在の駅とは多少位置が違うかもしれないが・という競争の名残があるわけだ・・


でさらに箱根土地が、武蔵野鉄道の経営権を獲得・・
ここで武蔵野鉄道と多摩湖鉄道が同じ鉄道会社になる・・


ただ、その時は、まだ現在の新宿線を中心の西武鉄道は、国土計画ではなかった・・


ここに1945年・・
戦時中の大同連合鉄道のおかげで
武蔵野鉄道が、旧西武鉄道を合併して
現在の西武鉄道が出来上がる・・・というわけだ・・


ここで、合併したのが武蔵野鉄道で、合併されたのが西武鉄道で

なんで名前が、合併された、方の名前になったか・・


これが、有名な話で
合併されたほうというのは、どうやっても卑屈というか下になってしまう・・

そうなると、士気も下がる・・

ということで、あえて、経営権は武蔵野鉄道でも、合併されたほうの会社を残すことで
下の、旧西武鉄道の社員のことも考えて、そうした・・ということらしい・・


まあ、普通は自分の方の名前を残すのが当たり前だが、それを残さないというのが
粋なところも、堤にはあったということだ。


だから、元はライバルの会社だったので、やたら近いところに線路があるという
西武線の不思議が歴史を見るとわかるのである・・


で、この時点では、

自分の乗る、拝島線は出来ていない・・

それ以降に伸びたのが拝島線・・

なので、先に出来ていた、玉川上水までは複線だが
それより先は、拝島線は単線・・という 都会の辺鄙な路線になっている・・

ちなみに、自分の最寄駅の武蔵砂川駅は開通時はなし
1983年に出来た新しい駅・・拝島線の全線開通は1968年

現在の東大和市駅は青梅橋駅という名前だったらしい・・・





で、また上の話だが

こんな話もあるらしい・・・
旧西武鉄道の終点だった高田馬場は山手線以外に接続路線がなかったため、さらに都心部へと延長する計画は戦前からあった。戦前は早稲田まで延長して市電と接続させようとし、この区間の免許も受けていたが実現せずに終わった。戦後は国鉄新宿駅への延伸を目指すこととなった。

山手線と並行する高田馬場 - 新宿間に免許が下りたことは当時としては異例であり、次のような逸話が残っている。第二次世界大戦後、千葉県内に敷設されていた鉄道連隊施設(現在の新京成電鉄路線)の払い下げにおいて、いったんは西武鉄道が引き受けることに決まった。ところが「千葉県内は京成」という行政側の判断で、一転して京成電鉄に譲られることになった。その代替として西武鉄道にとって悲願である高田馬場 - 新宿間に対し免許が与えられたという[2]。

別説として、鉄道アナリストの広岡友紀によると、民鉄路線を山手線内側へ入れないという政策がある中で西武鉄道に高田馬場 - 新宿間の免許が交付されたのは、終戦直後に運輸省が西武に資材の一部を放出させた見返りだという。西武は戦中戦後に払い下げ品によって車両増備をしていたが、戦後の混乱期には多くの鉄道事業者が資材不足に悩んでいた[3]。

仮駅としての開業

1948年(昭和23年)に高田馬場 - 新宿間の免許を取得した西武鉄道は、村山線を高田馬場駅から新宿駅まで延伸することとなった。しかし新宿周辺の区画整理がなされていなかったため、1952年(昭和27年)3月25日に西武新宿駅までを暫定的に開業した。これにともない、当時「西武線」もしくは「村山線」と呼ばれていた路線は「新宿線」と改称された。西武新宿駅は仮駅のまま営業を続け、新宿駅東口の再開発を待っていた。

もともと、当駅の周辺は角筈と呼ばれた地域だった。当駅の場所には都営バスの新宿車庫があった。西武新宿駅(角筈) - 新宿駅間は元々同社が1951年(昭和26年)まで所有していた新宿軌道線(西武軌道線、新宿 - 荻窪間、後の都電杉並線)の休止区間を東京都に譲渡せずそのまま免許線として保有し、また軌道も長年放置されていた。この軌道跡の所有権を根拠に、ゆくゆくは新宿駅まで延伸する計画だった。

1950年代終わり頃から、新宿東口駅舎を取り壊して駅ビルを建設する計画が立てられた。西武もこの計画に参加し、新宿線は駅ビルに乗り入れる予定になった。駅ビル設計図によると、西武線はビル2階に高架線で乗り入れ、2階には切符売り場・駅務室、1階にも駅務室が置かれる設計であった[4]。1961年(昭和36年)3月の『社内報西武』には、西武新宿線の新宿駅乗り入れ決定と、具体的な駅ビルの計画が報じられていた[5]。

新宿駅乗り入れ中止

1964年(昭和39年)、国鉄新宿駅東口に「新宿ステーションビル」が完成した。ビル2階は西武線乗り入れを考慮した構造となっていて、実際にビルには旅客用の入口が開けられ、改札ラッチも搬入され、高架線の基礎もいくつか作られていた。しかし、島式ホーム1本の6両編成用発着線2線分(当時)というスペースしか確保できず、輸送量が急増していた西武新宿線のターミナルとするには狭すぎた。そのため、乗り入れ計画は中止された[4]。

西武新宿線が新宿駅乗り入れを断念した本当の理由には異説もある。堤康次郎の側近だった中嶋忠三郎によると、戦時中に東京西南部の私鉄を次々に東京急行電鉄(大東急)に組み入れた五島慶太は、旧西武鉄道(現在の西武新宿線など)も狙っていた。1944年(昭和19年)に堤康次郎は旧西武鉄道・武蔵野鉄道・食糧増産の3社を合併する申請を出したが、五島と手を結んだ鉄道総局長官の堀木鎌三は許可を出さず、さらに西武系を分割するように圧力をかけてきた。堤はこの交通統制に懲りて西武鉄道の都心乗り入れを一切やめたという。中嶋は新宿東口までの延伸を主張したが、堤の意向で歌舞伎町の所で切られた[6]。

西武新宿線が新宿駅まで乗り入れていないのは、新宿駅東口の駅ビル建設に西武グループが反対していたからだという説もある。当時、まだ小規模であった西武百貨店池袋本店のある池袋に、当時百貨店として強力な力をみせていた三越・伊勢丹が池袋進出を検討していた。このうち新宿に本店を擁していた伊勢丹では東口駅ビルへの高島屋の新宿進出が取りざたされていて絶対阻止の構えであった。そこで伊勢丹が池袋出店計画をやめる代わりに西武が高島屋の新宿出店を反対するという取引が交わされ、駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れられなくなった[3]。

ターミナルとなってから

1977年(昭和52年)3月3日、現在の位置にプリンスホテルとショッピングモールを取り込んだ地上25階・地下4階の駅ビルが完成。西武新宿駅はホーム2本、10両編成用発着線3本を有する恒久的ターミナルとなり、西武の新宿駅東口への乗り入れは完全に消えた[4]。1980年(昭和55年)10月には北口が開設された。

新宿線複々線化計画

1980年代になって、西武新宿線の混雑を緩和する目的で、西武新宿 - 上石神井間に地下急行線を建設する計画が立てられた(西武新宿線#複々線構想を参照)。計画では地下線の西武新宿駅は現在の駅(-1.97 km)よりJR新宿駅寄り(-2.23 km、乗降場中心)になる、新宿プリンスホテルと丸ノ内線メトロプロムナードまでの間に設けられ、新宿駅各路線との乗り換えが便利になる計画であった。地下駅は有効長210 mの島式ホームで、駅舎は地下2階に設け、道路直下の地下1階はメトロプロムナードと靖国通り下の新宿サブナードを結ぶ連絡通路となる予定だった[7]。しかし、工事費の増大や輸送量の減少により、新宿線の地下複々線化計画は中止された。



時はバブル時代の1980年代末、新宿駅南口の貨物駅跡地(現・タカシマヤタイムズスクエア)に百貨店の建設構想が浮上した。同地域への出店を目指して西武百貨店は1989年に、西武新宿駅から大深度地下線を建設して南口まで延伸させる計画とともに競争入札に挑んだが、歌舞伎町商店街の反対などもあり、さらなる好条件を示した高島屋に敗れた。選考にあたった東京都は「都内の出店バランスを考慮して高島屋に決めた」と発言している。これによって西武鉄道の新宿駅方面への延伸は完全に立ち消えになった。



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