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2016年07月19日23:01

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10歳で

普通、10歳で下級生に『とび降りろ』なんて言うとは、到底塑像つかないよな...........
家庭に問題があったのか?
学校に不満があったのか?
なんにせよ、一番の問題なのは、この児童に限らず、『命の尊さ』『人の痛み』
そうしたものを親もも学校も周りの大人も教えていないことにあるような気がする。
勉強さえ一生懸命し優秀な成績さえ取っていれば立派な大人になれる。

その結果、高校生がお年寄りの家に押し込み、ただ『人を殺した見たかった』という
身勝手極まりない理由で殺害したり、『他人を刺してみたかった』などというくだらない
理由でなんの落ち度もない女性を突然後ろから遅いアイスピックのようなもので数術箇所
を刺し殺害したり、小学生が悪口をいわれたという理由だけで同級生を殺害したり、同級
生をさんざんいじめた挙句自殺に追いやり、事件発覚後ははんせいねせずに親の後ろに隠
れるようなゲスがいたり、そんな事件を引き起こすんだろう。

弱者を自分の鬱憤をはらす道具にしか見えなくなるような背景には、相当な家庭の問題があることは間違いないと思う。
家庭の問題と言っても夫婦仲が悪いとか、片親とかそれ以外にも、勉強・勉強と親が子供の心情を理解しようともせず、塾に行け、宿題はしたのか、こんなんじゃあ負けるぞ、と脅し続け、過大なストレスをまだ精神的にも未成熟な子供に押し付け続けていることが
もっとも大きな問題なのかもしれない。 こういう心理的成長の機会を失った大人も、
見かけは大人でも大人になりきれず、親にされたことを子供に押し付けてやらせようとするのかもしれない。

〜【大人になりきれない人】加藤諦三の著書から抜粋〜
大人になりきれない人というのはどういう人たちか。一口に言えば自分一人が生きるのに精一杯なのに、社会的責任を負わされて生きるのが辛くて、どうにもならなくなっている人たちである。つまり『五歳児の大人』なのである。どうにも生きるのが辛くなっている五歳児の部長もいれば、五歳児の母親もいる。もちろん五歳児の父親もいる。五歳児の先生もいれば、五歳児の新聞記者もいる。
日本全国どこへいっても『生きるのが辛い』五歳児の大人がいる。
ノイローゼの親に育てられた子供は、心理的成長の機会を失う。

しかし、生まれて三十年経てば、肉体的には三十歳である。そして社会的にも
三十歳である。心理的に五歳でも、肉体的、社会的には三十歳なのである。
社会はこの五歳児の大人に三十歳の大人の義務と責任を求めてくる。
これがどれほど辛いことであるかは、愛されて育った人には、想像を
絶するものがある。簡単にいえば五歳児に三十歳の男が持つ重い荷物を
持たせて歩かせるのである。周囲の人は、誰もが当たり前のように、
この五歳児に重い荷物を持って歩く事をと求めてくる。
五歳児の大人がそれを重いと言えば、周囲の人から袋叩きにあうだろう。

心の成長がある段階で止まったままで、社会的に過剰に適応しているのが、
五歳児の大人達である。五歳児の大人は、時に真面目であるが、心は優しくない。
人は、満足をするから優しくなれる。五歳児の大人たちは、心の満足がないまま
社会的に適応を強いられたのである。疑似成長という言葉があるが、
まさに五歳児の大人は疑似成長なのである。
心理的に成長して、その結果として社会的に適応しているのと、心理的に
成長していないのに無理に社会的に適応しているのとでは、まったく違う。
心理的に成長して、その結果として社会に適応している人は、社会的に適応した
行動をとりながら、満足している。

しかし心理的に成長していなくて、無理に社会的に適応している人は、社会的に
適応した行動をとるのが辛くて、きつい。だから、毎日生きるのが辛いのは、当たり前である。五歳児の大人は、社会的に適応しているが、毎日が不満である。面白くない。楽しくない。そうなれば『他人に優しくなれ』といっても無理である。

五歳児の大人とは、社会的には立派に見える人だけれども、心が貧しい人である。
五歳児の大人には、心の豊かさ、優しさ、満足感がない。心理的に健康な大人と一緒にいると、相手も豊かな気持ちになる。しかし五歳児の大人といると相手も緊張する。

五歳児の大人のイライラは、ちょうどテーブルを拭きたくないのに、強引に拭かされた子供のイライラした心理状態と同じである。テーブルを拭いたほうがいいが、拭かないほうがいいかといえば、拭いたほうがいい。しかし社会的に望ましいことをいやいやした時、心の優しさは消える。
鉛筆をイヤイヤ削らされた子は、鉛筆を削るのを忘れた子供に鉛筆を貸さない。
自分がそれだけイヤな事に耐えさせられたのに、他の子供がそれをしないということが許せないのである。 礼儀正しくしたくないのに、礼儀正しくした人は、礼儀正しくない人を許せない。
小さい頃、家の手伝いをしたくないのに、心理的に力づくで、つまり親からの
プレッシャーで、家の手伝いをさせられた子供は、自分が親になった時、今度は家の手伝いをしない子供を許せない。『親からのプレッシャーで』ということは、たとえば『それをしないと見捨てるぞ』という脅しなのである。
小さい頃、泥んこ遊びしたいだけすれば、泥んこ遊びは卒業していく。少年時代に、たとえそれが奇妙な格好でも『したい格好』をすれば、奇妙な格好は卒業していく。女の子も『したい髪型』をすれば、それを卒業していく。心理的に健康な大人は、何事も興味から入って、満足して、それらを卒業してきたひ人々である。
しかし、五歳児の大人は、すべてを我慢して生きてきた人たちである。
したがって、五歳児の大人の特徴は、『生きるのが辛い』ということと同時に他人に厳しいということである。人は自分がしたいことをした時に、他人のわがままを許す。しかし、それを我慢させられて人は、他人のわがままを許さない。
心理的に健康な大人は、生きるのが楽しいし、他人には優しいのである。五歳児の大人は、この逆である。

ところで大人になる準備もなしに、身体だけ大きくなってしまった幼児、つまり五歳児の大人が、今の日本にはたくさんいる。そうした人々は自分が大人になる準備をしていないので、他の人も準備をしていないと思っていたりする。
そして、心理的には幼児なのに社会的には責任ある立場に立たされて、生きるのが辛くなっている。これが五歳児の大人である。
それらの人々は、山登りをするのに、何の準備もなしに険しい北アルプスに登るようなはめになってしまっているのである。しかし何のために山に登るのかが分かっていない。だからよけい辛い。 
無責任に快楽を求めて生きる子供の能力しかないのに、社会的に責任ある立場に立たされてしまう。子供の心のままで、大人らしく生きられる魔法の杖を求めるが、それも見つからない。だから生きるのが辛い五歳児の大人の特徴は何よりも
『生きるのが辛い』と感じていることである。

オムツをしたままファッションリングをつけている女性を考えてみてほしい。五歳児の大人はそんな奇妙な人達である。心理的いえば、まだオムツはまだ取れていない。それなのにその年の流行したブランド物のハンドバックを持って街を歩いている女性と同じようなものなのである。

このニュースの男もまだオムツは取れていないんだろう。自分はお膳に付き、
『頂きます』といっているのに、子供は言わずに食べは始めた事が許せなかった。
ある意味子供を自分と対等に見えているのかもしれない。それもそのはずである。
この男そのものが5歳児の大人なのだから・・・・・

人は年を取るにしたがって、どうしても責任ある立場に立たされてくる。企業の中でもベルトコンベアーに乗ってすべてが自分の責任と関係なく運ばれていく時代から、階段を上がるに従い、自分の責任と、自分から企画立案してことを運ぶ積極性が問題になる時がくる。
たとえば、この責任を取る心構えや、自分から何かを始めるという積極性が三十五歳になってもないとする。そうしした時、会社で生きるのは辛い。それが五歳児の大人である。
いってみれば、小さな子供の時代というのは、威張っているだけであとは周囲
が皆やってくれるところがある。甘えが許される時代であり、無責任が許される時代である。人に依存しているのが自然な時代である。
そのような時代が終わる時、人は試練に立たされる。そのような時代が終わる時、人はストレスにさらされる。保護を当たり前と感じてきた人ほど、その時のストレスは強い。
小さな子どもの時代は、周囲から、ちやほやされるだけでその心理的な力が試される機会というのが少ない。
要するに、小さな子どもならば、心理的に幼稚でも許されるし、それが自然だし、一方的に愛されることだけを求めても誰も不思議に思わない。何事もごまかしがきく。
しかし、大人になると、責任を取るという強さと人を愛する能力が求められる。
そうなると積極性が欠如した大人にとってストレスの日は続く。ただ毎日生きる、というだけのために莫大なエネルギーを使わねばならない。その結果、消耗し燃え尽きる。このようにして生きるのが辛いと感じるのが、五歳児の大人である。
このような積極性が求められる大人の立場を、積極性を欠如したまま乗り切るためには、周囲に依存しながら、身分は周囲のものより上、という生き方がなければならない。けれども、世の中には、そんな生き方があるわけがないし、それが許されるわけもない。
そうした人が、自分はどのようにすれば人生のこの階段を切り抜けられるかと考えれば『あいつが悪い』と叫ぶ責任転嫁の生き方とか、現実を避妊する生き方しか道は残されていないだろう。
つまり、心理的な自立性、積極性、能動性などを要求される立場を、それらの資質なしに乗り切るためには、それ以外には被害妄想意識に立つしかない。したがって五歳児の大人が被害者意識に立った発想になって『みなからひどい目に遭わされている』と騒ぐというのは、不思議ではない。
『オレは辛い』と叫んでいれば、あとは周囲がうまくやってくれる、それが彼の願いである。愛する能力がない自分の顔を立ててくれることを彼は期待している。『生きるのが辛い』と叫んで、周囲に甘えさせてもらうということである。そのような甘えが通用しなくなった時に、五歳児の大人はストレスに耐えかね、消耗し燃え尽きる。
そして、『みんなを道連れに死んでやる』となる。

==========================  ここまで  ==========================

大人になりきれていない親が、子供の頃にされたことを自分の子供にもさせようとする。
私はこれだけのことをさせられたのに、市なしことが許せないと感じている大人もいるのかもしれない。親の期待に応えようと一生懸命勉強だけをさせられ続け、学校以外で遊ぶことも友達との思い出を作ることもさせてもらえずに学力とストレスだけをみにつけ育つ子供達。
子供を立派に育てることが親の義務などと、親にさせられ、同じように学力とストレスをみにつけ優しさを失った子供が親になり自分の子供に同じ目に合わせ、その子供が親になりまた子供に同じ目に合わせる。確かに勉強は大切だが、自分がさて嫌なことは人にするなとたったそれだけのことすら教えることができない大人は、学力とストレスを上げさせ、自分が小さなモンスターを作り上げてしまっていることに気づかない。
それに気づくのは子供が殺人を犯し、世間に騒がれ、人から白い目で見られるようにならなって、初めて気づくんだろうな。



■小2に飛び降り強要、小4両親に1千万円賠償命令
(朝日新聞デジタル - 07月19日 21:02)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4101052
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