mixiユーザー(id:38378433)

2016年06月17日20:35

402 view

政治は道徳ではない。これを理解しない限り、ナチスにやられる。

■馳文科相「道徳評価、入試に使わず」 動画に反論
(朝日新聞デジタル - 06月17日 12:52)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4048272

政治を道徳と勘違いしているのが日本国民だ。だから道徳という基本的人権を守ることとはバッティングする政治において、道徳が幅を利かせ、支配者はここぞというときに道徳を一滴たらす。すると民衆は発狂する。

道徳を政治だと信じている国民がいる限り、この国は、近代化されない。
自然主義を乗り越えられない。
情緒的価値判断の世界で終わってしまう。センチメンタリズムに流されて終わってしまう。
孫崎享さんや、植草一秀さんという日本を代表する政治評論家が、政治は道徳であるという古典から抜け出ていない。
日本共産党が、政治は道徳ではあるという、自然主義ファラシーを通過できないでいる。
大衆は、ナチスに一滴、道徳の媚薬をかがされるといつも発狂する。

そして自分で自分を抑圧してしまう。
日本共産党、その他、日本のインテリゲンチャの古典ぶりをあえて糾弾する。
政党任せ、インテリゲンチャ任せではダメだ。

国民は乗り越えろ、己自身で!



【関連日記】
自民党は死んだふりして様子見しているが・・・http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1953473647&owner_id=38378433

【孫崎享さんへのツイート】
@magosaki_ukeru 孫崎さんは基本的に支持することが多いのですが、この件については、異議が有ります。 https://twitter.com/reef100/status/7436573571256811

【植草一秀さんへのツイート】
@uekusa_kazuhide 植草さんは基本的に支持することが多数あります。冤罪問題についても全面的に植草さんの冤罪を主張します。ただ今回の舛添問題については物足りなさがあるのです。国民に遠慮しすぎだと。
https://twitter.com/reef100/status/743764312792064000 (0秒前)削除

【関連日記】
近代刑法は教育刑だ、応酬刑ではない。これを敷衍しないのは、敷衍したら、人民が近代社会契約の理念に覚醒し、本物のdemocracy国家になり、暴力的権力、非合理な権力が根底から崩れるからだ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1953471588&owner_id=38378433

【志位さんへのツイッター】
https://twitter.com/reef100/status/743380210058334209

*−−−引用開始−敬称略−一部編集後掲載−−*
志位和夫 ‏@shiikazuo 6月15日

(舛添知事辞任を受けての記者会見で)舛添氏を担ぎ出し、全面支援した自民・公明の「製造者責任」が厳しく問われる。
都知事選挙にむけて、清潔で信頼できる都政への刷新を目指し、「4野党プラス市民」枠組みを大切にして、ベストの候補者を擁立すべく努力したい。



アステローペ・リーフ ‏@reef100 6月16日
@shiikazuo 志位さん、せこすぎる。何で舛添をダシにしてB層の感情に訴えて国政選挙に票を持っていこうとするのだ。そんな風、ニセモノだ。根がない。近代社会契約の国家の定義に覚醒させれば必然的に国民の水位はあがり自民らは崩壊する。それが王道だ。その時舛添おろしは断じてない!

もっとも今の共産党もアウフヘーベンする。愚民を指導するという共産党ではなくなる。基本的人権党にアウフヘーベンせざるを得ない。道徳党では消滅する。

志位さん、正義の問題は、価値一元論の時代は人類史上、終わっているのだ。価値二元論の時代に人類史上、突入している。道徳という、情緒的価値判断を振り回すのは、原始人並だ。日本人を、この原始人並から引き上げることが必要だ。それがナチスへの抵抗力だ。

価値二元論だからといって大元の価値がなくなるわけではない。約束定義としての価値がそこに導入されそこを基盤とする。近代社会契約の自然権を約束定義とし近代社会契約の国家の定義を約束定義としてオーソライズする思考を日本人民に遅ればせながら定着させよ。脳内革命だ。

そうすれば舛添を生贄にする非道なやり口をする必要はなくなる。

そうすればエモーショナルにB層を扇動する必要はなくなる。

近代市民革命を経ずして、近代市民革命を通過する。近代市民革命の果実を手中にする。

日本国憲法を真に活かす、日本国憲法の正真正銘の実体としての国民が誕生する。

日本共産党は(共産主義そのものが今抱えている問題でもあるが)、自然主義を通過していないということだ。その矛盾に今立ち入っている。これは、科学的社会主義とかいう言葉でごまかせるものではない。自然主義を通過していない日本共産党という位置づけを認ることから始まる。

日本道徳党に陥っているなどというのは、自然主義を通過していない最たる現象だ。


事実判断から情緒的価値判断は論理的推論で導出できない。情緒的価値判断を事実判断に還元できない。事実判断と情緒で作られる価値判断は二元だ。道徳党に陥らないためには、このことを自覚する必要がある。

今の日本共産党では、無知なる国民、近代を通過してない国民の脳みそにつけ込んで、支持者を、多数決で決定した価値や、社会的通念で多数と思われる価値や、党幹部の価値や、そうしたものを党が主張したら、支持者もついて行かざるを得ないような一元的な仕組みになってしまう。

舛添批判がいい例だ。

道徳党の道徳も、基本的人権党の基本的人権も、価値判断には違いがない。だが、価値判断なくして政治など成り立たない。問題は、前提にいかなる要素を、自然主義ではなく、約束定義として置くかだ。論理的推論において、前提にない要素は結論にも含まれえない。

ナチス晋三やナチス橋下らの政治は、絶対に自然権たる基本的人権の要素のある結論を導出しない。できない。それは、前提に自然権たる基本的人権の要素がないからだ。ここがナチスか、そうでないかの決定的な見極めだ。

日本共産党が、約束定義として前提に近代社会契約の遺産たる自然権たる基本的人権という価値を置くことで、約束定義としての自然権、約束定義としての基本的人権という要素が、結論にも導出されるようになる。価値二元論でありながら、約束定義として自然権に帰依する手法だ。

これは共産主義が自然主義ファラシーを通過する為に必要だ。社会主義、共産主義というものが、価値一元論から、自然主義から、解放されて、アウフヘーベンする道だ。今の共産主義が研究中ということの最大問題だと思う。

日本共産党が基本的人権党の方向にいくのか、道徳党の方向を続けるのかは、日本国人民にとって重大な岐路だ。もし、道徳党へ行く路線を改めないなら、日本人民が救済される道は、日本共産党とともにはない。

日本人自らが、己の脳内革命で、一人一人が自然主義を通過する以外ない。価値一元論(自然主義)から価値二元論の世界に跳梁し、しかして、前提に、自然権なる基本的人権を、約束定義として置く。こういう思考になったとき、ナチスが存在し得なくなるだろう。同時に道徳党も。

*−−−引用終了−−−−−−*
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する