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2016年05月31日18:32

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日蓮正宗・法華講員 体験談 −その壮絶なる家庭環境と病魔を乗り越えてー

皆さん、お疲れ様ですm(_ _)m

先日父の逝去に関して、話す機会がありましたので、体験として文章化しました。

色々と、内容が壮絶なので、投稿しようか迷いましたが、先日第一期の夏期講習にて、

「苦しみは必ず、幸せの中に内在されている。苦しみ、罪障がなければ、幸せは存しない」というお話しがありました。

私自身も様々な苦しみがあったからこそ、信心も、精進も、自分なりに、必死に出来ていると思い感謝しています。まだまだ途上で未熟な身ですが成仏を目指していきたいです。

もし苦しみの真っ最中にいたり、同じような状況にあり、私の体験が何かしらの励み発心の素となってくれればと思い勇気を持って投稿してみます。

どうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m

私の家族の、信心の始まりは、母からです。
母は、昭和60年から、法華講に入信しておりました。その母と母のお友達に折伏されて、私は平成5年12月14日に〇〇寺にて御受戒を戴き入信しました。

折伏して下さった方々から、家族全員折伏して行こうと言われて、いわれるまままず父をその年に折伏して、御本尊下付となり入信に至りました。

次に、姉を折伏しましたが、相手にもしてくれませんでした。それからその年の、六万総登山に初登山させて頂きました。私は信心のことはよく分かっていませんでしたが、御開扉の瞬間、滝のように涙がながれてきました。初めての経験です。

私は、この大御本尊様に、お逢いするために、今まで生きてきた、苦しんできたのだと、気付きました。この時、今迄生きてきて、感じたことの無い、歓喜、感動を知りました。

それから不思議なことも沢山起こり、生活も劇変して良くなって感謝しておりました。
しかし、しばらくすると、その恵まれた生活が当たり前になり、一年くらいは、一生懸命信心していたのですが、次第に勤行もしなくなり、お寺にもあまり行かなくなっていました。

それから10年後(私の体験談は今回割愛しますが)...紆余曲折あり、ようやく私は本気で信心をするようになりました。それが30万登山前年です。

それからたくさんの折伏をさせていただきました。しかしその分、次から次に罪障が顕れてまいりました。それは今は罪障を知ると同時に、転重軽受の功徳であると確信しておりますが、当時ずっと苦しくて消えて無くなりたかったです。これも先祖が念仏の罪障でしょう。

そのなかの一部分、姉と父に絞った話しをさせていただきます。

まず私は、10年前に折伏できなかった姉を命がけで折伏しようと家を訪ねました。
必死でよく覚えていないのですが、ただ見栄も外聞も捨てて、土下座して信心して下さいと頼んでいたことは、覚えています。

その迫力に圧倒されたのか、そこまでいうならいいよと、すんなりお寺へ行き御受戒、御本尊下付を戴くことができました。ところが、それから信心を教えて行こうとしたら、信心の話しをするたびに猛反発して、私や母の悪口を言って、この信心のことまで誹謗するようになりました。

それから距離をとりはじめ、わたしたちを避けるようになりました。その後次々と姉一家に不幸が訪れ、姉は徐々に精神状態がおかしくなり、御本尊様を手ににぎり、お寺に返し、退転してしまいました。

それから間もなく統合失調症になり、精神錯乱状態になり、空を見上げて、けらけら笑うような状態でした。その姉を何とか治そうと、父がずっと姉の世話をしていたのですが、どうにも手に負えなくなり、私のところに来て、姉が治るように協力して欲しいと私に、何度も頼みに来ました。

私は親父も仏様を信じてないし、姉は、仏様を誹謗して今の病気になったんだから、みんなで信心していかないと何しても治らないといいました。父はその時は、鼻で笑い、信じてくれませんでしたが、姉がだんだん悪化して、とうとう精神病院に入院してしまいました。

その時に父は、また私にどうしたら治るか教えてくれ、今度は、言った通りにするからと言ってくれたので、仏様が何よりも大切だという話と、馬鹿にしたり誹謗すると罰を被る話をしました。

そこで、父自らお寺に通うことと、本山にみんなで御登山できることを願って行こうと話しました。それからは、父もお寺に通うようになると姉も一時期より回復していき、父も信じ始めるようになりました。丁度その時、わたしの母が肝臓癌の末期で、既に治療法が無いという状態で、余命宣告されました。

私はインターネットで色々調べて、肝臓移植という方法を知り、九大病院に母と二人して入院して、私の肝臓を母に移植しました。14時間の手術でした。

今より6年前でしたので、今ほど技術も進んで無くて命に及ぶ手術でしたので、手術当日朝に、もし上手く行かなくて、どちらかの命が絶たれても、ここまで頑張って来たのだから、お互いに絶対後悔や悲しみは、持たずに、感謝で、余生を生きて行こうと約束しました。

手術後は、母も私も痛みで、地獄の体験をしました。2.3日も耐えれば、痛みも無くなるだろうと、タカをくくっていました。しかし痛みで意識が遠のいて、気絶するように眠り、目が覚めた時、7.8時間は寝ただろうから、あと2日頑張れば傷みも引いてくるだろうから、我慢我慢と思っていましたが、時計を見ると1分も過ぎていないのです。その3日間は、何百年にも感じました。

無間という意味を垣間見た気がしました。

その時に、自分のしてきた事がこういう形で苦しみを受けて、猛烈に反省させていただいていることを、痛感いたしました。とにかく、永く苦しかったですexclamation ×2

それから3ヶ月後に退院してから、その帰り道に姉の入院している精神病院に、母と父と一緒に行きました。姉に面会すると虐待を受けていたようでした。私はすぐに違う病院を探して転院させて、そこからは父が献身的にケアしており、半年後に退院できるようになり、それからは姉と父をお寺の行事に参詣させる事ができるようになりました。

私の家は小学生の頃に離婚しており、家族バラバラで生活しており、それから何十年も経っているので他人のような関係性であったのに、信心をただ縁のある方に、ただ勧めていった結果、いつの間にか家族全員が信心出来るようになり、それから本山へも、家族全員で3度参詣することが叶いました。

姉も離婚していたのですが、元旦那さんも折伏して、姉の子供ふたりも折伏しておりましたので、こちらも家族全員では2度、本山に参詣が叶っています。

姉は統合失調症を発症してから沢山の御開扉を頂いておりますが、最初の登山では本山に来たにも関わらず錯乱状態になり、御開扉を賜ることが出来ませんでした。

私はこれだけ沢山の方が、喜びに溢れて御開扉を戴いているのに、何故私の家族だけ?と、自分自身の罪障の深さに、涙が止まりませんでした。

姉の二回目の登山は奉安堂に入れたものの、お題目どころか顔をあげることすら出来ませんでした。それでも私は、諦めませんでした。三回目は、ようやく、ボソボソとお題目をあげれるようになりました。少しずつですが、進歩はしておりました。

それから姉は病院に通院しながら、ヘルパーさんの介護を受けながらですが、とりあえずは普通の生活を送れるようになりました。ところがその頃から、今度は、父の容態が悪くなり出して、お講には何とか参詣させていただいていたのですが、腹膜透析をするために入院して参詣出来なくなりました。

それがおととしの6月で、同年8月14日から退院して、自宅で腹膜透析を始めました。父は、要介護認定5の重度で、訪問看護やヘルパーさんに毎日来て頂き、お世話をしていただいておりました。

姉は父から助けられた恩を、今度は私が返す為に父の面倒をみると病気の身で頑張っておりました。もちろん私も母も総動員して父の介護を、毎日していました。

父は透析をしている10時間ベッドで寝たままで、そのストレスから暴力的になり看護士さんや、介護の方にも暴言を吐いて次々に皆辞めて行きました。

そのうち家族だけでするようになった時期もあり、母も体調を壊し姉も寝込んで、私一人でしている時期もありました。その時は、毎朝私が父の家に行くと、色々なものを投げ散らかしていて、その片付けから一日が始まります。

私も疲れてはいましたが、その内に介護の方が心配して様子を見に来てくださり、再度来て下さるようになりました。それでも父の暴言や、心無い振舞いはなおりませんでした。私はただ介護の方たちに謝り続けるしかありませんでした。

そして、10月の或る日に、父は相変わらず私に暴言を吐いて、文句を言っていました。私は父の足元で介護していたのですが、その時顔を右足で蹴られました。悲しくて帰り道の車の運転をしながら涙がながれました。

その翌日は、看護士さんヘルパーさんが、一日来てくれるようになっていたので、たまには休んで下さいと言われて家でゆっくりさせていただきました。翌日父の家にいくと、足から血が出ていました。私が居ない時、介護士さん達が入浴させるためシャワーチェアに座らせるときに、右足をぶつけて、切ったとのことでした。それは、私の顔を蹴った右足でした。

最初はたいした傷では無いと思っていたのですが、一応病院でみてもらっていましたが、だんだんと悪化していきました。

父はその傷が治らずついに壊死して、足を切断して、本当に寝たきりになりました。しかし、それまで暴力的だった態度は別人のようにやさしくなり、皆さんに感謝出来る境界へと変わっていきました。足を切断したのはショックでは有りましたが、皆様に感謝出来る、仏様を信じることができる境界へと御本尊様がしてくださったのだとかんじました。

私が勤行や唱題していると、ベッドから声を合わせてお題目を唱えるようになり、信心というものを信じれるようになりました。

それからは事あるごとに信心の話しを聞いてくるようになりました。そして昨年7月始めに容態急変して集中治療室にはいりました。集中治療室にはベッドが3つあり、運ばれてくる皆さんは、息荒く、凄く苦しんで、空を掴むような状態で3日と持たず、亡くなっていきます。

その時の父の状態は、血圧、上が60/下40、心拍数常に180以上、熱38-39度の状態がずっと続いていて、いつ死んでもおかしくないということでした。私は姉と交互に、父の世話をする為、見舞いに行っていたのですが、姉はその頃まだ信心に熱心ではなく、時折まだ反発していました。

父の心拍数、血圧、熱の状態からすれば苦しくてしょうがないはずなのに、父自身は、全くどうもないから、もう治ったと、父は本当に思っていたようでした。医師も信じれられないと、言っていました。隣のベッドで、次々人が亡くなっていくなか、父はCDを持ってこいとか、うなぎを買ってこいとか、毎日、楽しんでいるかのようでした。

ただ、姉が信心に反発するようなことをいったりして、父の側にいくと突然父も苦しみだして、ということが何度かありました私は姉に、今成仏がかかった闘いをしているのだから、父を大切に想うなら、自らの足でお寺に行って唱題して、その命で父の世話に来て下さい。そうでなければもう来ないで下さいと、お願いしました。

父の今の容態は、本当は地獄の苦しみのはずなのに、冗談いったり、食欲が増しているのは全て仏様の加護によるものということを必死に説明しました。姉は何度も反発する度に、父の容態が悪くなるので信じざるを得なかったのでしょう。

自らお寺に毎日通い、何時間も唱題して、それから病院にいくようになりました。そうすると、父が顔が綺麗だと褒めてくれるし、父の状態がだんだんと良くなるので、もっと信心したいと言い出しました。それで、次は折伏をすることを教えました。友達を次々と私に引き合わせ、次々5組折伏成就しました。

そして父は日に日に元気になっていき、もう退院して本山に行きたい、とまで言い出しました。ところがその時に姉は、人に褒められて慢心をおこし、姉の折伏なのに弟ばかり褒められるから、などというようなことを言い出し、姉が頑張っているから、父は元気なんだ!弟のおかげではなと、また私に反発しました。

その夜父が急変して、のたうち回るように苦しんで、夜中に私は病院に呼ばれ、覚悟して下さいと言われました。

私は御守りご本尊様を、父が痛いという場所にあてながら唱題をしました。すると、あっと言う間に痛みがなくなり、なんと血圧、脈拍、熱も全て正常値に戻り、本当に健康な状態に戻りました。
奇蹟のようなことでした。

翌日、医師もびっくりして、これなら大丈夫と、集中治療室をでて、一般の病室に移りました。父も身体の調子が物凄くよくなったらしく、ご本尊様は凄いなぁと、何度も言っていました。

私もホッとして、その日は久しぶりに安心してゆっくり眠ることができました。そして明けて朝8時に、突然父が亡くなったと、病院からの連絡で目がさめました。最後は、本当に健康になり、亡くなっていったのです。それが、昨年8月14日です。介護を始めて丁度一年後に亡くなりました。

15日は通夜でしたが、お寺の盂蘭盆会でしたので、いつも通り、駐車場の警備をさせていただきました。

皆さんは、私が来たのでびっくりされていましたが、その間、母と姉にお題目をあげていてもい、お寺が終わり次第、葬儀場にもどりました。不思議と哀しみなど微塵もなく、ただ歓喜が溢れてきました。

通夜のご挨拶でも涙が流れてくるので、皆さんに伝えました。これは、哀しくて涙を流しているのではなく、歓喜が溢れて、涙がながれるのだと。

『私は今、日蓮正宗の信心をしていて本当に良かったと、心の底から感謝しています』とご挨拶いたしました。

通夜の晩も折伏でき、夜10時から朝まで夜通しお題目を送ろうと、あげておりましたが、朝4時位に、とうとう私は体力の限界になり、倒れかけました。少しだけ姉にお題目を変わってもらって、隣の部屋で横になっていましたが、だんだんと意識が薄れだしたのですが、姉の題目が不安でいっぱいなのがわかり、戻らなければとおもいながらも、意識が遠のいて行きました。

すると隣から、姉の声ではない、力強いお題目の声が聞こえてきて、薄れる意識の中で、あーっ、仏様があげてくださっているのですねと思い、そのお題目を聞いていると、5分とかからず、だんだんと力がみなぎり、体力が回復したのです。

それで父の安置している部屋にいくと、話もしたことのない、支部の北川さんというご婦人が、お題目をあげてくださっているのです。あさの4時にです。

それからまたお題目をあげ始めると、病弱な母まで加わり、4人で朝まであげきりました。その方にお礼をいうと、その方のお母様が亡くなった時、まだ信心がなくて、母の通夜にお題目をあげれなかったけれど、妙観講の方が朝まで代わりにお題目をあげてくださったそうです。

その後、信心が進み、母の通夜でお題目をあげれなかった自分を後悔して、その時、代わりにあげてくださった方に恩返ししたいと考え、いつか誰かの通夜の時に、お題目のお手伝いをしたいと、いつもご本尊様にお願いしてきたそうです。

それでこんな時間に、ご迷惑とおもいながらもなぜか引き寄せられるように、朝4時にきてお題目をあげていたというのです。仏様の御慈悲に感謝しかありませんでした。

葬儀、初七日と、無事に執り行ない、それから一週間、私と姉の耳にはお題目が音楽でも聴いているようにずっと聞こえていました。

実質、初七日の日は、姉の友達でキリスト教の三瀬さんを、御尊師、奥様や皆様にお話しして頂き御受戒成就致しました。

そして、その方をお送りしようと、私の車で送迎していく途中、お寺を出たところで、おばあさんが道路に座り込んでおりました。車に轢かれたら大変と思い、その方を車に乗せて、ご自宅までお送りしました。その時に、簡単にですが、南無妙法蓮華経と信心の大事を話して、毎日夜ならお寺でお題目あげてますから来てくださいねと話しました。

翌日、御尊師が不在で、夜の唱題会は、私が導師を勤めさせていただいておりました。
1時間の唱題が終わり、私が観念していて、昨日のおばあさんのことを、御祈念していると、参道側の窓から、『すみません』と昨日のおばあさんの声が聞こえてくるのです。

始めは、思い違いかと思っておりましたが、何度もいうので、見てみると、そのおばあさんでした。私は導師をしておりましたので姉に、中に案内してもらい唱題会が終わったあと、信心の大事をまた、お話して御受戒を受ける事となりました。

しかし御尊師がおられませんでしたので、また翌日の唱題会にお誘いして、翌日一緒にお題目をあげました。すると、その方自身が、お題目をあげると、有難いといって喜んでおられました。表情も別人でした。色々話していると、ご主人が病院に入院していて透析しており、明日退院すると、お聞きしましたので、私の車で迎えに行きましょうとなり、当日ご主人を迎えにいきました。

迎えに行って驚いたのは、私の父と同じ病院、同じ病気で、しかも父の担当をしていた看護士さんが担当でした。これには、あまりの一致に、お互いビックリしたのですが、間違いなくこれは、父が引き合わせた折伏の縁であると感じました。

その方を送りながら折伏して、そのおばあさん梅野さんと、ご主人の大森さん、ふたりとも御受戒成就いたしました。

三七日には、姉の知り合いで、父が送迎したことのある渡辺さんの折伏成就、四七日に立野さん成就、五七日に檜垣さんの折伏成就ができました。姉の知り合いを連れてきて、私が話をするという形で、次々成就しました。四十九日までに姉の孫二人も成就しました。それから父の100日忌は、11月21日、本山の御大会の日でもあり、私の誕生日でもあります。その日に姉と登山参詣させていただきました。

この不思議な日にちの一致に、父も一緒に登山していると確信できました。その後、姉も母も、父を通した不思議な、数々の奇蹟を、目の当たりにして、自ら信心を求めて行くようになりました。

今では率先して、お寺の行事、お手伝い、唱題、折伏、お登山と、頑張ってくれるようになりました。

姉の折伏は昨年から13人になり、地区が出来るくらいです。今年2月田中さん、5月井出さんと、私を頼らずとも折伏成就出来るようにも、なりました。

今では、ヘルパーも断り、御本尊様も大切に御安置して、毎日勤行、唱題して、仕事も出来るようになりました。もう統合失調症とは分からないくらいになってきました。ここまで23年かかりました。

私自身がまだまだなので、これからようやく始まるようなものですが、これまでの仏様の、慈悲深い、御はからいに深く感謝申し上げています。m(_ _)m

拙い文面ですが、父の死を境にして仏様の色々な御導きがあったことを、体験として投稿させていただきました。

御読みいただき、有難うございますm(_ _)m

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この体験談は福岡県北九州市在住、実名「松本利生」様が2016年5月31日に
Facebookに投稿されたものを、ご本人様の許可を得て転載させて頂きました。

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