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2016年05月24日19:41

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近代にデビューしないで現代にデビューできはしない。現代は近代の延長線上にある。

■SEALDs密着映画、自由を問う 監督「想像超えた」
(朝日新聞デジタル - 05月21日 15:09)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4003686

●【近代にデビューしないで現代にデビューできはしない。現代は近代の延長線上にある。】

現代に生きていることと人類史の思想的遺産を継承していることとは全く違う。

現代に生きていることを以って現代にデビューしているというなら猿でも豚でも現代にデビューしているのだ。
それは人類史の思想的遺産を継承して現代に生きていることにはならない。

日本人の多くは近代に覚醒していない。だから、現代にも覚醒していない。

近代から現代への移行は、近代に確立した約束定義を、約束定義として自覚したことにある。
社会契約説の【国家の定義】は、
【国家とは人民が作ったものである。自然権たる人民の基本的人権を守るために作ったものだ。】とするものだ。

この定義はテクスト(文を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文それ自体として読む)としてみれば、
宗教的な価値一元論(いわゆる自然主義)の意味としてとらえることもできるし、

だが、近代社会契約として見るときの本当の解釈は、価値一元論での主張ではない。
(このことは歴史の進化とともに浮き彫りになってきた。)

●【事実と価値は二元であり、論理的推論で、事実から価値も、価値から事実も演繹できない。】

近代社会契約の本当の解釈は、価値一元論でなく、価値二元論だ。
近代社会契約の国家の定義は、約束定義なのである。こういうものとして認めましょうという約束だ。

*−−−−約束定義について 開始−−−−−−−*
言葉の意味定義は大きく三つに分けられ得る。論理学の「定義理論」の概要はこのようなものだ。


【1】約束定義

「この言葉はこういうことばと同義に用いることにしよう」という約束された定義だ。学術用語はこれだ。

たとえば「安倍晋三はファシストである」という場合の例でいえば
「『安倍晋三』ということばを『ファシスト』ということばと同義に用いることにしよう」という決定(定義)だ。


【2】本質定義・・・(狭義の意味定義)

対象の性質についての主張だ。

「安倍晋三はファシストである」という場合の例でいえば、
「『安倍晋三』ということばで指示されている対象はファシストである」という対象の性質についての主張(経験分析)だ。


これは、『認識目的』と『主体的に選択する視点』との関連で違ってくる。


【3】用法定義

このことばはこういう用法でつかわれています、という定義だ。

辞書の使用例はこれだ。

*−−−−−約束定義について 終了−−−−−*


近代社会契約というのは、その名の通り社会で個人個人の間で承認した約束である。そういう約束をしたということを受け入れましょう、受け入れますという約束だ。
人類は歴史上に置いてこの約束定義を受け入れてきた。

近代社会契約の国家の定義は、自然主義的なものではない。
こういうことにしましょうと言う約束定義だ。
そうしなければ、自然権たる人民の基本的人権を守ることができないという、歴史的検証から人類が到達した約束定義なのだ。

近代社会契約の【国家の定義】は、【国家とは人民が作ったものである。自然権たる人民の基本的人権を作ったものだ。】とするものだ。

ここに出てくる自然権としての人民の基本的人権というものは、これも約束定義である。
約束である。
ただ、理論的に、約束定義であることを、人類が、自覚し、その認識を共有するには、長い年月を必要とした。
19世紀から20世紀初頭の自然主義ファラシー(自然主義誤謬)の認識運動を経なければならなかった。

それまでの間、人々は、自然権は、先験的に、神がこの世を作ったことで初めから決まっているとする価値一元論(自然主義)の認識と、純粋に約束事だと割り切った考え方とが混在していて、人類史上、理論的に決着をつけることはなかった。19世紀から20世紀初頭の自然主義ファラシーが世界を駆け抜けるまでは。


●【近代から現代への移行は、19世紀から20世紀初頭にかけて、自然主義ファラシー(自然主義誤謬)が世界的に吹き荒れ、近代に確立した約束定義を、約束定義として、理論的に自覚したことによる。
約束定義を約束として位置付けたことにある。
現実には収束は、第二次世界大戦後の、米英倫理学会の発展まで待つことになる。
殊にナチスの迫害で米国に逃れた学者の貢献は大きい】

社会契約説の国家の定義は、宗教的な価値一元論、いわゆる自然主義と、
価値二元論としての価値とが
未分離状態であった。

あるものは、本当に自然権なるものがア・プリオリに実在すると考えていた。

だが、学問が発達するにつれて、ア・プリオリに、つまり、先験的に、つまり、この世の初めから、
価値が事実として存在するとする立場(価値一元論)は
自然主義の誤謬(自然主義ファラシー)として認識されるに至った。

こうして19世紀から20世紀初頭にかけてあらゆる学問が洗い直される自然主義ファラシーが起こった。数学も物理も医学も文学も何もかも。これ以後の学問が近代、これ以前が古典としての学問だ。

どういうのが自然主義ファラシーかというと、さっきも言ったように、ファラシーとは誤謬(間違い)と言う意味だが、
自然主義とは理屈抜きではじめから、自然とそう決まっていると決めつける主義だが、
たとえば数学の場合で言えば、
定理としてはじめから決まっていると認められていたものを、
更に更に遡及して、なぜこのような定理が言えるのかを証明しようとした。
すると、どうしても、これだけは正しいものとして認めましょう、という証明不可能だというところに行きついた。
そこで、それら行きついたところのもの、すなわち、証明抜きで正しいものと認めましょうと約束したものを、公理としたのだ。

もうこれ以上、証明しようがないところまでつきつめ、これはもう証明なしでみとめましょうと約束てして公理を認めた。

公理を設定したことで、その公理をもとにして再度数学を体系化していった。
論理的推論で証明していった。
そして現代の数学の体系がある。

このように、初めに公理に匹敵するもの、そのような原理原則、言葉の約束定義、そうした前提から出発し、学問は体系化されなおしていった。
公理等、約束定義から再構築し、体系化した学問。これが近代の学問だ。
それ以前の学問が古典だ。

自然主義ファラシーの嵐は世界的に吹き荒れ、この種の再構築、体系化をあらゆる学問でしたが、されなかったものは古典のままと言うことだ。

基本的に体系化されないものは近代の学問とは言いがたいということだ。



●【しかし、我が国の学問は天皇制のために著しく学問の自由が侵害された。】

democracyは研究されず、近代社会契約は広められず、はじめに天皇ありきの思想、初めに神ありきの思想、天孫降臨族の神ありきの思想、これで歴史など、近代学問としての歴史など、言うまでも無く成り立たない。自然主義だ。価値一元論ということだ。

20世紀に入って、敗戦で明治憲法が終わるまで、
神国日本の信仰があり、
現人神天皇制が闊歩し、
我が国には、近代の学問が殊に社会科学においては成立しなかった。

驚くなかれ、戦時中には東大教授には、天皇かキリストかどっちが偉いかという研究したのまでいるということだ。(歴史家の羽仁五郎の弁)
神話が現実として国民の間に信じられていた。


●【現在、日本国人民に、democracyに対する認識の欠如、荒っぽさ、誤謬、これらを引き起こしている原因は、長らく近代社会契約から隔絶された日本国人民の古典的脳みそにある。天皇制のマイナス遺産だ。】

それが大きなブレーキとして働いている。
インテリゲンチャ、一般市民を問わず、
政治家、政党を問わず、
マルキシズム、アンチマルキシズムを問わず、
近代社会契約の原理原則、democracy、国家、国家権力、人民主権、近代憲法、立憲主義、これらを認識する上で大きな障害となっている。

日本国憲法は、近代社会契約に基づく憲法だが、近代社会契約の原理原則、democracy、国家、国家権力、人民主権、近代憲法、立憲主義、この理解に大きな障害となっている。

革新政党支持者の中にも、この近代社会契約の原理原則、democracy、国家、国家権力、人民主権、近代憲法、立憲主義、の認識がスポイルしている人がたくさんいる。

安倍晋三ら自民党政権、ナチス政権は無論、この国民の無知蒙昧に付け込んだ改憲をしようとし、
アンチdemocracy【アンチ人民支配、アンチ人民主権、アンチ自然権たる基本的人権】の政治をしている。

その他多数の、政治に無関心な人は、言うまでも無く、この近代社会契約の原理原則、democracy、国家、国家権力、人民主権、近代憲法、立憲主義、の認識がスポイルしている人がたくさんいる。


●よって日本人民は、いまだに近代を通過していない。


●近代の延長線上にある現代とは、どういう位置にいるのかというと、
第二次世界大戦を経て、
なぜナチスが誕生したのか、なぜナチスを防げなかったのか、その学問の成果とともに現代がある。

結論を言えば、【価値二元論】 = 【事実から価値は演繹されない】、ということの、理論的証明だった。

たとえば、正義というのも価値だが、その価値は情緒によって作られる。
情緒の数だけ情緒的価値判断はありうる。
いかなる事実からも情緒的価値は、論理的推論で演繹されない。事実判断と価値判断は二元のものだ。事実判断から情緒的価値判断は論理的推論で演繹されない。

ならば、自然法なる自然権は成り立たないか?価値判断そのものである、、自然法なる自然権は成り立たないか?

論理的推論としては、ア・プリオリ(先験的事実)としては成り立たない。

だが、そうした自然権なるものを、自然法を、それに【帰依する】(価値として受け入れる)、ということで、
自然権の価値、自然法の価値を根元に置いて、そこから論理的推論で演繹していくということが可能なのだ。それが価値二元論の価値の使い方だ。

自然権たる価値、自然法たる価値、その価値のいわばトリクルダウンが起こる。
水は高きより低きにながれるように。

【1】およそいかなる演繹的推論においても、前提のいずれにも含まれていない要素は結論にも含まれえない、これは論理上の一般準則のコロラリー(当然の帰結)とされるものだ。

【2】 上記【1】を対偶として言えば、
結論に、(自然権たる価値、自然法たる価値の要素)が含まれるなら、
前提のいずれかに、(自然権たる価値、自然法たる価値の要素)がなければならない。

近代社会契約の国家の定義は、社会科学として見ても、傑出しているということだ。
価値二元論の現代においても、ますますいかんなくのその真価を発揮している。


●【では、この(自然権たる価値=大元に社会契約として置いた価値)を、主権者人民の社会に反映させるために、
(事実の連関としての学問=事実判断の体系)自体は、どういう役目を果たしているのか。】


近代社会契約の国家の定義、これは、まさに、社会科学の学術用語(約束定義)として論理的推論による演繹の基本となっている。

国家は人民が、自然権たる人民の基本的人権を守るために作った。


この近代社会契約の約束定義の学術用語が存在しなければ、
近代社会契約の国家権力を、【人民が国家に信託したものであり、国家に人民の基本的人権を守らせるために、人民は国家に強大な国家権力を信託した】、という約束定義の用語として導出できない。

この国家という近代社会契約の約束定義の学術用語や、国家権力という近代社会契約の約束定義の学術用語がなければ、
国家権力の暴走を防ぐ仕組みを、社会科学として、構築できない。

憲法は、人民が国家を縛ったもの。人民が国家に国家権力を信託したのとひきかえに国家に誓約させたもの。この憲法の近代社会契約の約束定義も、上記近代社会契約の国家の約束定義がなければ導出されない。

さらに、近代社会契約の主権(政治を最終的に決定する権利)は人民にある。この約束定義も、上記近代社会契約の国家の約束定義無くしては導出されない。

ここを蹴飛ばせばあそこが飛び出るという事実の連関たる社会科学としての仕組みは、
日本国憲法という近代憲法を生み、
その近代憲法たる日本国憲法を絶対に守ると言う国家権力者の誓約(立憲主義)を以って、
自然権たる主権者人民の基本的人権も守ることができる。

これらは、すべて、社会科学としての事実の連関です。
この社会科学の事実の連関は、

さらに社会統制も構築する。
国家による国民への社会統制を一次統制とするなら、国民が国家を逆社会統制するということで、
社会統制の双指向性を実現する仕組みを構築することになる。
主権者国民の自然権たる基本的人権を守る為には必須のことだ。

こうしてさまざまな事実としての連関を、社会科学の仕組みを、
大元に置いた価値(社会契約による国家の約束定義)を原理原則として、
作ることができる。

逆に自民党憲法草案のように、
基本的人権は国家が法律に書いて国民に許可するもの、という【人権の法律による留保】という思想は、近代社会契約の真逆であり、こうなるともう、自然権たる基本的人権など破壊される。
事実の連関としてナチスを防げない。
これも事実の連関です。


さらに、どんなに立派な事実の連関たる憲法システムが国家に構築されたとしても、
権力が憲法を守らないなら、すべてが水の泡となる。
憲法システムなど、何の意味も無くなる。
国家権力が、暴力的権力、非合理な権力なら、
どんなに憲法で国家を縛りつけても、
憲法が無意味化されて、
暴力的権力、非合理な権力が闊歩する。
ナチスを防げない。
ナチス安倍晋三自公政権の、立憲主義破壊がいかに重大な人民の敵となるものか、理解しなければならない。ここを防がなければ、すべての憲法システムは機能しない。無意味となる。
だが、権力が市民的平和権力、市民的平等権力、合理的権力になれば、解決する。


●【事実の連関たる、社会科学と
自然権たる基本的人権を守ると言う価値との関係について。】

自然権たる基本的人権を守ると言う目的を持って、
社会科学の事実の連関たる学問を作るのか、

自然権としての基本的人権を破壊するという目的を持って、
社会科学の事実の連関たる学問を作るのか、

これで、道は分かれる。主権者人民の運命はわかれる。



さらに、
自然権たる基本的人権を守ると言う目的を持って、
構築した政治システムであっても、
それを動かす国家権力が、自然権たる基本的人権を守ろうとする国家権力なのか、
破壊しようとする国家権力なのか
それで道は分かれる。

現日本は、自然権たる基本的人権を守ると言う目的を持って構築した日本国憲法の仕組みでありながら
一方、権力は、自然権たる基本的人権を破壊するという暴力的権力、非合理な権力が国家権力ばかりか、メディアを含めたあらゆる分野で闊歩している。

この権力を倒さねばならないのだ。



ナチス自民の改憲をすれば、
基本的人権を守ると言う目的を持って構築した日本国憲法の仕組みを破壊し、
さらに、暴力的権力、非合理な権力となる。

自然権たる基本的人権を破壊すると言う目的を持って構築した改憲の仕組みと、
自然権たる基本的人権を破壊するという権力になれば、
もはや暗黒だ。


●【道徳という情緒的価値判断は基本的に常に正しい。ナチスが道徳を語り、人民がその道徳の正しさに迎合してれば、ナチスを防げない。】

主権者人民の自然権たる基本的人権を守るという政治の目的を外れて、
道徳的に正しいか正しくないかという視点で、
政治を主権者の道徳心に訴えて動かすというのは、ナチスの大衆操作の常套手段だ。
政治は道徳ではない。
国民の生命と自由と財産を守るためのものだ。すなわち、主権者人民の自然権たる基本的人権を守るためのものだ。
国民の生命と自由と財産を守るためのものだ。すなわち、主権者人民の自然権たる基本的人権を守るためのという、政治の目的を大前提とするなら、いかなるナチスの政治勢力にも連れ去られることはないが、
主権者人民の自然権たる基本的人権を守るためのという政治の目的を大前提とせず、金に清潔であることとかの道徳を優越させたりすれば、
ナチスは国民を攪乱し、その攪乱に乗じて勝利する。
大同団結を割るはナチスの常套手段だ。


●【道徳とはなにか。】

1.道徳とは「人」の道だ。「犬、猫、猿」に対立する概念が「人」、その「人」の道が道徳。

2.基本的人権とは、「個人」の自然権。国家に対立する概念である「個人」、その「個人」の自然権が基本的人権。

3.「犬、猫、猿」に対立する概念である「人」、その「人」の道徳に従うという視点ではなく、
「国家」に対立する概念である「個人」、その「個人」の基本的人権を守るという視点で、政治を見なければ、
国家の横暴から「個人」の基本的人権は守れない。

4.「人」の道たる道徳は、基本的にすべて正しい。
道徳を説くナチスに「そうですね、おっしゃるとおりですね」と、感心していては、
ナチスの道徳政治による、国畜人間管理から、解放されない。

5.すなわち、道徳で政治をしていては、ファシズム政治を防げない。




●【脳みそが、保守も革新も、近代に達していない。無論現代になど達していない。
日本人民の脳みそが徘徊している世界は、「道徳的にどうか」である。

ナチスは、個人の基本的人権など絶対に口にしない。

だが、ナチスは道徳を常に語り、人としての道徳を説く。

道徳は常に正しい。

道徳で政治をされたら、誰も反対できない。即ち、誰も反対できないということは、
大政翼賛会になるのだ。ファシズムになるのだ。

ナチス天皇制は、個人の基本的人権ではなく、人の道を説いた。誰も反対できない。
(ウィキペディア:教育勅語
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8B%85%E8%AA%9E
*−−−−−引用開始−−−−−−−*
12の徳目

親に孝養をつくしましょう(孝行)
兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
人格の向上につとめましょう(徳器成就)
広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)
*−−−−−引用終了−−−−−−−*

良いこと言うだろう。道徳だからだ。道徳は誰が言っても基本的に常に正しいのだ。

もっとも、上の教育勅語は、肝心な点が抜けているが。

教育勅語には、頭に「朕(ちん)おもうに」がついている。

朕が思おうが思うまいが、道徳は基本的に誰が言っても常に正しいのだ。

朕が思おうが思うまいが基本的に正しいのだ。

ナチス独裁者が言っても正しいのだ。安倍晋三が言っても正しいのだ。

道徳で政治をされたら、だれも反対できないのだ。

ファシズムを防げない。


国畜である人民に、人の道を説き、
誰も反対できない正しい道徳を説き、
そして、ナチスは、返す刀で、国家に敵対する個人の基本的人権を縛り上げ、
人としての国畜道を、正しい道徳の論理で繰り返す。

「良い話だなぁ、人としての道だなぁ、」といって誰も反対できない道徳を聞かされ、
無抵抗になるように脳みそを縛り上げて
国家が戦場に人民を送るのだ。

無抵抗な国畜なればこそ、国家権力者・実質的な朕に誰が就任しようが、朕の思うがままだ。
道徳を毎日唱えながら、朕体制は国畜を管理する。


●【道徳で政治をしたら、誰も反対できない。道徳は常に正しいから。
だから、道徳で政治をさてはいけないのだ。】

政治は国民の個人個人の、生命と、自由と、財産を、「個人」に対立する概念の「国家」から、まもるものだから。

犬、猫、猿などに対立する「人」、その「人」の道徳ではなく、
国家に対立する「個人」、その「個人」の基本的人権の目録を以って、
即ち、国家を縛り上げる近代憲法を以って、
国家に対峙しなければ、国民の「個人」の基本的人権を守る政治は、実現しないのだ。

【了】

*−−−−−−掲題記事引用開始−−−−−−−*

SEALDs密着映画、自由を問う 監督「想像超えた」
2016年05月21日 15:09 朝日新聞デジタル

写真映画に登場する昨年8月30日の国会前デモ(C)2016 sky−key factory, Takashi NISHIHARA

 安全保障関連法への抗議デモを続けた学生団体「SEALDs(シールズ)」に密着したドキュメンタリー映画が、全国で公開されている。笑い、泣き、怒り、悩みながら活動する若者の姿を通し、自由とは何かを問いかける。

 「命を守れ」「集団的自衛権はいらない」。群衆の真ん中で、もみくちゃになって声をからす学生たち。デモを離れると、コンビニ帰りに「ネコ飼いたい」と急に叫んだり、家でカレーを食べながら「モテたい」とはにかんだり……。

 映画は「わたしの自由について〜SEALDs2015〜」。昨年5月3日、安保法案の閣議決定直前に学生たちが結成したSEALDsの最初のデモから、9月の安保法成立直後までを追いかけた。加速度的に仲間を増やしていくデモを記録する一方、主要メンバー3人を中心に準備や大学生活で見せる何げない表情やつぶやきもとらえた。

 西原孝至(たかし)監督(32)はフリーのディレクターで、主にドキュメンタリー番組を手がけてきた。学生時代は映画制作に熱中し、デモに参加しようという発想はなかった。昨年4月、SEALDs結成前の学生たちのデモを動画サイトで見かけた。おしゃれな格好、リズミカルなコール。「今までにない形だ」と驚いた。

 ツイッターで知った緊急デモに駆けつけ、会議にも同席してカメラを回した。当初は警戒されたが、一緒に食事をしたり家庭を訪れたりするうちにメンバーとの距離が縮まった。

 会議の開始時刻が過ぎても誰も現れない。バイトや論文執筆のために休む――。そんな学生たちが、様々なメディアを使いこなし、大勢を前に自分の責任で堂々と語る。その活動ぶりは「僕の想像を超えていた」という。
*−−−−−−掲題記事引用終了−−−−−−−*
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