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2016年04月28日00:56

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4月28日の日記

今日の出来事:866年−応天門の変、990年−源頼光の酒呑童子退治、1186年−静御前が鶴岡八幡宮で「静の舞」を舞う、1599年−庄内の乱、1945年−ムッソリーニがパルチザンに捕えられ銃殺、1952年−日本国とアメリカ合衆国との間で安全保障条約発効

今日は、応天門の変です。応天門(平安京大内裏にあった門)が放火され、炎上する事件が起こりました。伴善男は右大臣・藤原良相に源信が犯人であると告発しました。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏を呪って火を着けたものだとされました。藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲しました。参議・藤原基経が父の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護しました。源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げました。その後、大宅鷹取が応天門の放火の犯人は伴善男とその子・伴中庸であると訴え出ました。清和天皇は勅を下して伴善男の取調べを命じ、伴善男、伴中庸、生江恒山、伴清縄らを捕らえると厳しく尋問しました。しかし、彼らは犯行を認めませんでした。朝廷は伴善男らを応天門を放火した犯人であると断罪して、流罪としました。伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に、これに連座した紀夏井は土佐国、伴河男は能登国、伴夏影は越後国、伴冬満は常陸国、紀春道は上総国、伴高吉は下総国、紀武城は日向国、伴春範は薩摩国に流されました。この処分から程無く源信、藤原良相の左右両大臣が急死したため、藤原良房が朝廷の全権を掌握する事になりました。この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏、紀氏の有力官人を排斥し、事件後に清和天皇の摂政となり、藤原氏の勢力を拡大する事に成功しました。こうして古代からの名族・伴氏(大伴氏)は没落しました。藤原氏による他氏排斥事件の一つとされています。

次に、源頼光の酒呑童子退治です。源頼光は、源満仲の長子で清和源氏の3代目です。父・満仲が初めて「武士団」を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる事になります。異母弟に大和源氏の源頼親、後に源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいます。990年、関白・藤原兼家の葬儀に際して、藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになりました。但馬、伊予、摂津の「受領」を歴任しました。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許されました。「受領」として蓄えた財により一条邸を持ち、藤原道長に多大な進物をして尽くしました。藤原道長の権勢の発展により、側近である源頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになりました。同じく摂関家に仕えて武勇に優れた弟・頼信と共に、後の清和源氏が興隆する礎を築きました。大江山夷賊追討の勅命を賜り、「頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)」らと共に大江山へ向かいました。渡辺綱は、「頼光四天王」の筆頭です。武蔵国・嵯峨源氏の源宛の子として、足立郡箕田郷(現・埼玉県鴻巣市)で生まれました。摂津源氏・源満仲の娘婿である仁明源氏・源敦の養子となり、母方の里である摂津国・西成郡渡辺(現・大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺綱と称して「渡辺氏」の祖となりました。坂田公時は、「金太郎」の幼名で有名です。956年に、彫物師・十兵衛の娘、八重桐が京都に上った時、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれて懐妊しました。八重桐は故郷に帰って金太郎を産みましたが、坂田蔵人が亡くなったため、京都へ帰らずに故郷で育てる事にしました。金太郎は、足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育ちました。そして、976年4月28日、足柄峠に来た源頼光と出会い、その力量を認められて家来となりました。名前を坂田金時と改名し、京都に上って「頼光四天王」の一人となりました。「金時豆」の名前の由来となり、更に息子の坂田金平は「きんぴらゴボウ」の名の由来となりました。酒呑童子は、丹波国の大江山に住んでいた盗賊の頭目です。酒が好きだった事から、手下達からこの名で呼ばれていました。大江山では、龍宮御殿のような邸宅に住み、数多くの鬼共を部下にしていました。副首領の茨木童子、四天王(熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子)、いくしま童子などを従えていました。一条天皇の時代、京都の若者や姫君が次々と神隠しに遭いました。陰陽師・安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む酒呑童子の仕業とわかりました。そこで、源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせました。990年4月28日、源頼光らは旅の者を装って訪ねると、酒を酌み交わして話を聞きました。それによると、最澄が延暦寺を建てて以来、行き場がなくなって大江山に住みついたという事でした。源頼光らは鬼に「神便鬼毒酒」という毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って成敗しました。こうして、酒呑童子の首級を京都に持ち帰って凱旋しました。首級は一条天皇らが検分した後に、宇治の平等院に納められました。その後、源頼光は「土蜘蛛退治」の話でも知られる事になります。1021年8月29日、74歳で死去しました。渡辺綱は京都の一条戻橋の上で、鬼(茨木童子)を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話でも有名になります。1025年3月17日、72歳で死去しました。坂田金時は、1012年1月11日、九州の賊を征伐するために築紫へ向かう途中、美作・勝田壮(現・岡山県勝央町)で重い熱病にかかり死去しました。享年55でした。

その次に、静御前が鶴岡八幡宮で「静の舞」を舞うです。静御前は「源平合戦」後、兄の源頼朝と対立した源義経が京を落ちる際に同行しましたが、吉野で義経と別れると京へ戻りました。途中で持ち物を奪われて山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられて京の北条時政に引き渡され、母・磯禅師とともに鎌倉に送られました。静は源頼朝に、鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられました。こうして静は「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」(吉野山の峰の白雪を踏み分けながら山中深く入ってしまわれた、あのお方の跡が恋しく思われる)と歌い、次に「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」(静よ静よと繰り返し私の名を呼んでくださった。あの昔のように懐かしい判官様の時めく世に今一度したいものよ)と義経を慕う歌を唄って頼朝を激怒させましたが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けました。これが「静の舞」と呼ばれ、後世に語り継がれる事になるのです。この時、静は義経の子を妊娠しており、頼朝は女子なら助けるが男子なら殺すと命じました。静は男子を産みました。磯禅師が赤子を取り上げて安達清常に渡し、由比ヶ浜に沈められました。その後、静と磯禅師は京に帰されました。「ドラえもん」の登場人物・源静香(しずかちゃん)は、静御前の名をもとに命名されています。

その次の次に、庄内の乱です。庄内の乱は、1599年に日向国庄内(現・宮崎県都城市周辺)で起きた、島津氏とその重臣・伊集院氏との争乱です。伊集院忠棟は、島津義久の筆頭家老で、島津氏の九州制覇のために活躍した功臣でした。豊臣秀吉の「九州征伐」の際は、豊臣氏と島津氏の兵力の違いを認識して早期降伏を主張しました。降伏後は自ら人質となって上洛して戦後処理にあたり、島津氏の存続に貢献しました。そのため、島津家の代表的家臣と認められて戦後処分で秀吉から直接、肝付一郡を拝領しました。1594年、島津家領内で検地が行われると、伊集院氏は豊臣秀吉から朱印をもって都城8万石を給されました。それまで都城を領していた北郷氏は北郷忠能が幼少であった事と、「朝鮮出兵」で軍役の不足があった事もあり、祁答院へ移されて石高も6万9千石から3万7千石へ減らされました。また、伊集院忠棟は秀吉から直接命令を受けて、検地後の知行配分の責任者となりました。このため、家中の不満が集中し、家中を乱す「佞人」と呼ばれました。また、伊集院氏の伏見の邸は、島津氏のよりも大きく、国元では島津氏宗家を乗っ取ろうとしているという風評がありました。島津忠恒は、島津氏当主・義久の弟である義弘の三男でした。しかし、島津義久に男子が無く、忠恒の兄・久保が若くして死去したため、義久の三女・亀寿と結婚し、島津氏の後継者となりました。「朝鮮の役」で出陣した島津忠恒らの遠征軍に対して、国元からの補給が満足に行われませんでした。補給不足の原因が、朝鮮に出陣していない伊集院忠棟にあると考えていた事などもあり、島津氏家臣からも深く恨まれていました。そこで、1599年4月4日に島津忠恒は義久、義弘の留守中に、伏見の島津邸に伊集院忠棟を呼び出して斬殺しました。島津氏から独立した大名として扱われていた伊集院忠棟を殺害した事は、豊臣政権に対する反逆ともとれる行為でした。島津忠恒は、高雄山神護寺で謹慎しました。また、伊集院忠棟の妻子は東福寺へ移りました。当時の実権を握っていた徳川家康は、主君は反逆した家臣を成敗できるとして島津忠恒の行為を支持しました。その結果、島津忠恒は島津邸へ戻りました。伊集院忠棟の嫡子・忠真は都城近郊の大川原山で狩りの最中でしたが、父が斬殺された事を伝えられると馳せ戻って一族や家臣と合議した結果、叔父の伊集院新右衛門は旧領の安堵を請うべきとしましたが、元・紀州根来寺の僧で広済寺住職となっていた客将・白石永仙は、徹底抗戦を主張しました。結局、白石永仙の言を入れて島津氏宗家に対して反旗を翻す事に決定しました。都城は、都之城を本城とし、恒吉城、梅北城、志和池城、梶山城、勝岡城、山之口城、月山日向城、安永城、野々美谷城、末吉城、山田城、財部城の12箇所の外城に守られていました。伊集院忠真は各外城の防御を厚くして、一族や家臣を配置して守りを固めました。島津忠恒は、自ら乱を鎮圧するために徳川家康の許可を得て帰国しました。東霧島金剛仏作寺を本営とし、庄内を攻めました。徳川家康は家臣・山口直友を使者として遣わし、和睦を促しましたが成立しませんでした。また、九州の諸大名にも島津氏を支援するための出陣を要請しました。島津豊久、秋月種長、伊東祐兵、相良長毎、高橋直次、高橋元種、太田一吉、立花宗茂、小西行長などに出陣が命ぜられました。しかし、島津氏の一門・島津豊久は既に出陣しており、家臣の反乱を討伐するのに他家の援軍を仰ぐ事を潔しとしない島津氏が固辞したため、実際に庄内に軍勢を進めたのは、秋月種長、高橋元種、太田一吉のみでした。島津忠恒は、緒戦で山田城を落として入城しました。次いで恒吉城を落としましたが、その後は戦果を挙げられず、戦いは膠着状態となりました。その後、野之美谷と志和地の間の森田に陣を築き、志和地城を兵糧攻めにしました。一方、伊集院側の智将・白石永仙らの活躍により、島津側の死傷者が増えました。島津義久も出陣し、財部城を攻めましたが落とす事ができませんでした。徳川家康は再度、山口直友を使者として遣わして調停を行いました。山口直友は、島津義久と忠恒から「伊集院忠真が降伏すれば今までどおり召抱える。」という証文をとり、これを提示して降伏を促しました。1600年3月20日、志和地城が降伏しました。その後、他の外城も順次降伏しました。伊集院忠真は、家康の調停を受け入れて4月28日に降伏しました。降伏後、伊集院忠真は頴娃1万石へ移され、後に帖佐2万石へ移されました。白石永仙は、伊集院忠真に謀反を勧めた事、伏兵を用いて沢山の島津の将兵を殺害した事を咎められて首を刎ねられました。都城には旧領主・北郷氏が復帰して「庄内の乱」は終結しました。翌年、島津家では「一向宗禁止令」が出され、その後の「かくれ念仏」の原因となりました。この政策は、伊集院忠棟が熱心な一向門徒であった事が関係しています。「庄内の乱」の終結後も、島津忠恒は伊集院忠真を警戒し続けました。その後、伊集院忠真は肥後国の加藤清正に、仇を討つための助力を願う密使を送りました。しかし、その密書を託された伊集院甚吉は島津忠恒に密書を渡しました。「関ヶ原の戦い」後の1602年10月2日、島津忠恒は上洛に際して伊集院忠真に同行を命じ、日向国野尻で狩りを催した際に射殺しました。伊集院忠真は、島津家臣の平田平馬と馬を交換していたため、誤って平田平馬も殺されました。伊集院忠真殺害は誤射として片付けられ、実行犯の押川治右衛門と淵脇平馬は切腹を命じられました。同日に伊集院忠真の母と弟三人も殺されました。平田平馬の死亡も、父・平田増宗がかつて島津家の家督に島津久信を推した事から、計画的暗殺という説もあります。

最後に、ムッソリーニがパルチザンに捕えられ銃殺です。失脚したムッソリーニは幽閉されましたが、ナチスに救出されてヒトラーと落ち合いました。ナチスの支援を受けて北イタリアに「イタリア社会共和国(RSI)」の樹立を宣言し、首班に就任しました。RSI軍は義勇兵と正規兵、民兵が入り混じる状況下で、ドイツ軍と共に連合国軍に対して勇敢に戦いました。RSI軍とドイツ軍によるイタリアでの戦いが終焉すると、勝者となった「パルチザン」が次々とRSI軍兵士やファシスト党員らを虐殺し始めました。同盟関係にあった日本からも内密に亡命の打診がありましたが、ムッソリーニは「好意はありがたいが、余はイタリアで人生を終えたい」と返答して断りました。ムッソリーニはスイスに向かい、そこから中立国でヨーロッパで唯一ファシスト政権が継続しているスペインへ向かう計画でした。しかし、移動途中のコモ湖付近でレジスタンスの第52ガリバルディ旅団のパルチザン部隊に、同乗していた愛人でローマ教皇庁高官の子女クラレッタとその兄マルチェッロと共に捕捉されました。メッツェグラ市へ護送され、途中でマルチェッロが脱出を図ったとして射殺されました。メッツェグラ市でムッソリーニはディ・マリアという人物の民家に幽閉され、裁きを待つ事になりました。パルチザンは、他に拘束していたファシスト政権の要人達と合わせて一挙に略式裁判で葬るという決断を下しました。最初から法の裁きを受けさせる気がない、不法な人民裁判でした。翌日、ムッソリーニを初めとした15名の政府要人とクラレッタは銃殺されました。ムッソリーニの遺体はミラノのロレート広場に逆さ吊りにして晒されました。これが、イタリアの独裁者ムッソリーニの最期です。

今日の誕生日:李舜臣、徳川頼宣、ジェームズ・モンロー(第5代アメリカ合衆国大統領)、島津斉彬、前原一誠、栗田健男、佐々木敢一(マヒナスターズ)、山岸一雄、サダム・フセイン(イラク共和国第5代大統領)、グレート小鹿、辻元清美、竹本孝之、生稲晃子(元おニャン子クラブ、元うしろ髪ひかれ隊)、ディエゴ・シメオネ、江口のりこ、ゆいP(おかずクラブ)、佐野和真、中村美里、ヤマニンスキー、サッカーボーイ

今日の記念日:労働安全衛生世界デー、サンフランシスコ講和記念日、庭の日、渋谷ギャルの日、アクティブシニアの日、シニアーズデイ、洗車の日、海外ドラマの日

今日の「今日訓」:本日は、1914年にカナダで「包括的労働者補償法」が成立した日を記念して、カナダ地方公務員組合が1984年に「労災犠牲者追悼の日」として制定されました。1991年にカナダ議会が国の追悼の日の一つと定めると他の国でも行われるようになりました。1996年に「国際労働組合総連合(ITUC)が国際的な記念日とし、2002年に「国際労働機関(ILO)が国連の国際デーの一つとしました。そして、2003年に「労働安全衛生世界デー」に名称を変更しました。1952年4月28日に日本国との平和条約「サンフランシスコ講和条約」が発効し、日本の主権が回復して国際社会に復帰した事で「サンフランシスコ講和記念日」、1956年4月28日にKRTテレビ(現・TBS)で日本最初の海外ドラマ「カウボーイGメン」が放送された事で「海外ドラマの日」、「4(し)2(ぶ)8(や)」の語呂合わせで「 渋谷ギャルの日」、「4(シ)2(ニ)8(ヤ)」の語呂合わせで「アクティブシニアの日」、「シニアーズデイ」、「4(ヨイ)2(ツ)8(ヤ)」の語呂合わせで「洗車の日」、「4(よい)28(庭)」の語呂合わせで「庭の日」となりました。
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