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2016年04月24日00:21

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4月24日の日記

今日の出来事:1333年−元弘の乱:船上山の戦い、1771年−八重山地震発生、1854年−吉田松陰が黒船への密航に失敗、1932年−目黒競馬場で第1回東京優駿(日本ダービー)開催、1963年−少女漫画雑誌「週刊マーガレット」が創刊、1993年−テーマパーク「東武ワールドスクウェア」が完成、2009年−新型インフルエンザの世界的流行

今日は、元弘の乱:船上山の戦いです。1332年の「元弘の乱」により、鎌倉幕府転覆計画を企てた後醍醐天皇が捕らえられて隠岐に流されると、隠岐守護・佐々木清高は黒木御所に天皇一行を幽閉しました。当時は、西日本を中心に後醍醐天皇の皇子・護良親王を奉じた楠木正成を筆頭に「悪党」と呼ばれる武士達が「赤坂・千早城の戦い」など、反幕府活動を続けていました。佐々木清高は有志による後醍醐天皇奪還を警戒し、御所を厳しく監視していました。しかし、1333年4月19日に突如として後醍醐天皇は幽閉先の隠岐を脱出し、出雲を目指しました。しかし、風により東に流されて隣国で伯耆国の名和の湊に漂着しました。後醍醐天皇は、伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏を頼りました。これに応じた名和氏の当主・名和長年は、後醍醐天皇を奉じて4月23日に船上山にて挙兵しました。また、大山寺の別当であった名和長年の弟・信濃坊源盛も僧兵を引き連れて船上山へと向かいました。後醍醐天皇を逃した失態を犯した隠岐守護・佐々木清高は、後醍醐天皇を奪還するために手勢を率いて船上山に攻め寄せました。伯耆国の小鴨氏や糟屋氏らも佐々木清高に応じて手勢を率いて参陣しました。船上山に籠もる名和長年は、木に400〜500もの旗を括りつけて自軍を大軍であるかのように見せかけ、時折矢を放っては幕府軍を牽制しました。4月24日に幕府軍は攻勢を仕掛けましたが、指揮官の一人である佐々木昌綱が右目に矢が当たって戦死しました。さらに、搦手側の佐々木定宗らが降伏しました。その報を知らずに佐々木清高が率いる本軍は、船上山を攻め上がりました。しかし、夕刻の暴風雨に乗じた名和軍の襲撃に混乱し、多数の兵が船上山の断崖絶壁から落ちるなどの被害が出て、佐々木清高は命からがら小波城へと逃げ帰りました。この幕府方の敗北を受け、後詰で出雲国内にいた佐々木氏の一族・富士名義綱、塩冶高貞らが天皇方へ反旗を翻すなど幕府軍は混乱を極めました。一方の後醍醐天皇は、戦いの後に船上山に行宮を設置し、ここから討幕の綸旨を発しました。天皇方は攻勢へ転じ、佐々木清高の拠点である小波城を名和長年の弟・行氏らが攻略しました。続いて、伯耆守護代である糟屋重行の居城・中山城を攻略し、佐々木清高と糟屋重行は京都へと撤退しました。その後、小鴨氏の居城・小鴨城を攻撃して小鴨元之らを降伏させて、一帯の幕府勢力を駆逐しました。後醍醐天皇の復帰と挙兵を知った鎌倉幕府は、船上山の討伐部隊の援軍に山陽道から名越高家、山陰道からは足利高氏を送りました。しかし、名越高家は赤松則村に討ち取られ、足利高氏は反旗を翻して六波羅を攻め滅ぼしました。京都へと逃れた佐々木清高と糟屋重行はこの時に捕らえられ、近江番場の蓮華寺にて六波羅探題・北条仲時らと共に自害しました。これにより、船上山討伐の幕府軍は完全に崩壊し、後醍醐天皇は帰洛する事となりました。

次に、八重山地震発生です。八重山地震は、1771年4月24日午前8時頃に発生した地震です。津波により先島諸島(特に八重山列島)が大きな被害をうけました。この地震により大津波が発生し、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約12000人・家屋流失2000戸以上という大惨事になりました。石垣島では潮が引いて青、緑、紅、紫熱帯色の色彩が眩き、大小の魚がサンゴ礁の根株の下に跳躍しました。婦女や小児がこれを捕えているところに、東方洋中に二条の暗雲が立ち込め、砕けて激しき暴潮漲溢が弃馬の如く狂い、繰り返し襲って来ました。八重山では死者9400人あまり、生存者18607人で、14の村が流され、住民の3分の1が死亡しました。耕作可能地の多くが塩害の影響をうけ、農作物の生産が低迷しました。飢饉と疫病などにより、明治時代初頭の人口は地震前の3分の1程度まで減少しました。津波は85.4メートルで石垣島を縦断し、日本最高の遡上記録とされています。

その次に、吉田松陰が黒船への密航に失敗です。吉田松陰が下田で黒船への密航を企てて、失敗しました。松陰先生は幼名・杉虎之助、吉田家に養子に入って吉田大次郎と名乗りました。諱・矩方、字・義卿、通称・寅次郎、号・松陰または二十一回猛士と称しました。名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となる事、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解し、これを組み合わせると「二十一回」となる事により付けられました。吉田松陰は、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれて外国留学を決意しました。同郷の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとしましたが、ヨーロッパで勃発した「クリミア戦争」にイギリスが参戦した事から予定を繰り上げて出航した為に失敗しました。1854年、ペリーが「日米和親条約締結」の為に再航した際には、弟子の金子重之輔と二人で伊豆下田港に停泊中の「ポーハタン号」へ赴き、乗船して密航を訴えましたが拒否されました。吉田松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に下田町隣村の名主に自首して、下田で取調べを受けた後に小伝馬町の牢屋敷に送られました。この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されました。幕府ではこの時に、佐久間象山と吉田松陰の両名を死罪にしようという動きがありましたが、老中首座・阿部正弘が反対したため助命され、長州へ檻送されて野山獄に幽囚されました。金子重之輔は、士分以下の者が入る岩倉獄で病没しました。吉田松陰は、獄中で密航の動機とその思想的背景を「幽囚録」に著しました。入獄者11名に対して「獄中教育」を施し、出獄させました。看守の福川犀之助も弟子入りしてしまいました。翌年、出獄を許されて、杉家に幽閉されました。そして、杉家の敷地に「松下村塾」を開塾する事になります。吉田松陰はこの塾で多数の、後に日本を変える事になる逸材を教育します。主な塾生は、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、寺島忠三郎、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、前原一誠、山田顕義、野村靖、赤根武人、時山直八、杉山松介、松浦松洞、有吉熊次郎、駒井政五郎、大谷茂樹などです。幕末の長州藩を変えたのは、この吉田松陰先生です。

最後に、目黒競馬場で第1回東京優駿(日本ダービー)開催です。「第一回東京優駿」が目黒競馬場で開催されました。「日本ダービー」という副称の方が有名ですが、イギリスのダービーステークスを模して名付けられました。第一回優勝馬は「ワカタカ」です。

今日の誕生日:賀茂真淵、松本清、ルー・テーズ、桂由美、服部公一、つかこうへい、金萬福、嶋田久作、加藤久、河内淳一(元KUWATA BAND)、山咲千里、田島貴男(ORIGINAL LOVE)、古賀いずみ(カズン)、大鶴義丹、村上てつや(ゴスペラーズ)、田中広子、小林恵、田中マルクス闘莉王、山本梓、獣神サンダー・ライガー、テイタニヤ、カツラギエース、シンコウキング、スキーキャプテン、ブゼンキャンドル、カンパニー、ピンクカメオ、ディープスカイ

今日の記念日:植物学の日、日本ダービー記念日、しぶしの日

今日の「今日訓」:本日は、文久2年4月24日、植物分類学者・牧野富太郎の誕生日である事から「植物学の日」、1932年、目黒競馬場で日本初の「ダービー」が開催された事で「日本ダービー記念日」、2006年1月1日に鹿児島県の松山町、志布志町、有明町の合併により誕生した「志布志市」、この「志布志」という地名は天智天皇が人々の志が篤い事を喜ばれて命名されました。「し(4)ぶ(2)し(4)」と読む語呂合わせで「しぶしの日」となりました。
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