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2016年04月22日00:30

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《「日帝強占でハングル文字を奪われた」という韓国人の勘違い。》

僕は、普段より
日本は朝鮮を植民地化した歴史などないと言い続けているが
なぜ、日本が朝鮮半島を植民地としなかったのか
これを読めばよくわかる。

大事な事なのでもう一度言う。
日本は朝鮮を植民地としていない。
もちろん、台湾や南方もである。




《「日帝強占でハングル文字を奪われた」という韓国人の勘違い。》

現代の韓国人は、日帝強占によって、多くの誇るべき朝鮮の文化が破壊され、世界的に優れたハングル文字も日本人によって取り上げられ、日本語使用を強要されたと教育され、ほぼ100%の韓国人が、前後の脈絡も理解せず、それを盲信している。日本が統治する以前から朝鮮には独自の素晴らしい文化が花開いていたと韓国々民は皆、妄想を逞しくしている。

李氏朝鮮は清国の従属下にあり漢文が重視される一方、劣化朝鮮儒教によりハングルは徹底的に軽視され、公文書で採用される事すら無かった。ハングル文字は散逸し、事実上 忘れ去られていた。李朝末期になって開化派は井上角五郎の尽力によりハングル文字を再発見し、体系化して、1886年に朝鮮で初のハングル使用の新聞・公文書(官報)である『漢城周報』(同年創刊)を発行した。また、女子の為の教育機関は皆無で、当時の朝鮮女性には人権すらなかった。

「日韓併合」は、朝鮮側からの度重なる懇願により日本が渋々応じたものである。日本の統治が始まると学校教育に於ける科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入され、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた。1911年に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルが教えられる事となった。「日本人がハングルを奪った」との韓国人の主張は全く史実とは異なり、寧ろ、日本人による朝鮮総督府が、文盲の民にハングル文字を普及させたのである。

朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。朝鮮総督府は1912年に、近代に於いて初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用 諺文綴字法(おんもんていじほう)を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理 統一の為の新正書法である諺文綴字法を作成し、その普及に努めた。

日清戦争以降、総督府は日本軍の兵士として朝鮮人を動員する事なども視野に入れ、特に1938年の国家総動員法を受け、朝鮮地域では内鮮一体の名の下で「朝鮮人」の日本人化を急ぐようになった。今にして考えるに、民族意識が人一倍強い韓国人は、これに反発しているのであろう事は想像に難くない。

ならば何故、大韓帝国は日本との「併合」を懇願したのであろうか?日本との「併合」により朝鮮人が一等国民たろうとしたのであれば、日本人になりたいという事であろう。「内鮮一体の日本人化」に反発するのであれば、「併合」では無く「植民地化」を希望すれば良かったではないか?思うに朝鮮側は「併合」の意味するところが理解できていなかったのではないか?

「朝鮮が日本領である以上、朝鮮語は日本語の一方言であり、内地の方言同様最終的には消滅させるべきである」という朝鮮語方言論や、「帝国臣民である以上朝鮮人はその民族性を捨てて、大和民族に同化せねばならない」とする論が日本側から出てくるのは予見できた事である。

1938年の第三次教育令で朝鮮語が随意科目となった事を皮切りに、1942年には用いる言葉を賞罰の対象にする運動を開始するなど「国語(日本語)常用」運動が本格化し、公教育からは朝鮮語が排除されていった。文盲だった朝鮮人は、日本人により教育された朝鮮語(ハングル)を、今度は同じ日本人から取り上げられたのである。現代の韓国人は、こうした前後の脈絡を理解せずに、たた闇雲に「日本人がハングルを奪った」と騒いでいるのである。

要するに、自ら「併合」を望みながら、「併合」の意味するところを知らず、日本人になる覚悟など当然無かったとしか考えられない。当時、「併合」により、我々四等国民は晴れて一等国民になれたとはしゃいでいたが、実際のところは何ものも失なう覚悟を持たずに、日本の権威を都合よく利用したかった。昨今の朴槿恵政権が言うところの「用日」感覚であったのだろう。

朝鮮人にしてみれば、(一時的に)「併合」により難局を乗り切れれば、後は日本など必要無い。そういう感覚であったのだろう。生真面目に人材と血税を注いだ日本国民が馬鹿を見たのである。正しく戦前も戦後も朝鮮人は変わっていない。救いの手を差し伸べる日本は、常に馬鹿を見る。「日韓併合」の本質とは朝鮮人の「用日」感覚に日本が振り回されただけであったのだ。

併し、4回も懇願され、渋々「併合」に応じた日本は「日韓併合」を重く受け止め、最大限、真面目に取り組んだ。生真面目な日本人は、朝鮮人に配慮しながらも、朝鮮人のお気軽な「併合要請」の裏にあった「用日感覚」までは理解できなかった。大日本帝國は文字通りの本気で、誠心誠意「併合」を進めたのであった。

韓国政府や韓国人、在日韓国朝鮮人のみならず、日本の国会議員や所謂 識者と呼ばれる者までもが、「併合」を「植民地統治」と間違って呼ぶが、彼らは余りにも無知である。今にして思えば朝鮮人が望んだ「併合」では無く、朝鮮を「植民地」にしておけば良かったのである。「植民地」なら「日本人化」など考える必要も無かった。朝鮮人には無理でも、日本の政治家や識者には「併合」と「植民地」の違いぐらいは最低限、理解して頂きたいものである。

「日韓併合」は、日本が大東亜戦争に敗戦する迄は、表向き上手くいっていた。敢えて〈表向き〉と表現したのは、例え敗戦により終了したとはいえ、35年間も共に歩んだ朝鮮人の〈本質的に邪(よこしま)な人間性〉は何も正す事ができなかったからである。熊本の大地震に歓喜する韓国人を見るにつけ、その民族が持つ人間性の本質とは如何ともし難い事が良く分かる。

「日韓併合」は、遅々としていたとはいえ表面的には上手くいっていた。「第八十六回帝国議会説明資料」(1944年12月、朝鮮総督府)によれば、1938年には「国語(日本語)を解する朝鮮人」の割合は前年度の8%弱から13%強にまで伸び、1943年末には22%まで伸びている。一方、1945年の「敗戦」当時南朝鮮の12歳以上の総人口の78%は依然としてハングル文盲であった。普通初等学校への就学率は1910年で1.0%、1923年で2桁台に乗り11.2%、1935年で21.7%、1943年で49.0%であった。

日本による統治の末期でも、朝鮮語が日常会話や新聞などから完全に排除された訳では無く、朝鮮総督府に於いても、1921年から1945年の日本統治終了に至るまで、朝鮮語能力検定に合格した職員を昇進させ、給与に於いて有利に処遇していた。1943年時点で、日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり221,5人で、8割の朝鮮人は日本語を話す事が出来なかった。
(「朝鮮事情」1940〜1944年版)

また、朝鮮総督府は李氏朝鮮の主な文化財の保護の為の総督府令を出している。国宝に指定されたものには南大門などが含まれていた。日本人学者とその朝鮮人の弟子達によって歴史・語学・文学などの韓国学研究の基礎が作られたのも日韓併合中の事である。当時の事(史実)を調べようともせずに「日韓併合」を「日帝強占」などと批判的に表現するのは、筋違いも甚だしい。


石川 久遠氏フェイスブックより転載

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