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2016年04月21日00:18

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4月21日の日記

今日の出来事:1591年−豊臣秀吉の命により、千利休が聚楽第で切腹、1612年−岡本大八事件、1701年−元禄赤穂事件:刃傷松の廊下、1918年−第一次世界大戦:レッドバロン戦死、1934年−ネッシー事件:ネス湖でネッシーの写真を撮影、1951年−日本で民間放送16社に予備免許、1989年−任天堂が携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を発売

今日は、豊臣秀吉の命により、千利休が聚楽第で切腹です。茶聖・千利休が聚楽第で切腹しました。千宗易は堺の商家に生まれ、茶の湯に親しみ17歳で北向道陳に師事し、道陳の紹介で武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組みました。織田信長が堺を直轄地とした時に、茶頭として雇われました。「本能寺の変」の後は豊臣秀吉に仕え、正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、宮中参内するための居士号「利休」を勅賜されました。北野大茶会を主管し、秀吉の重い信任を受けました。黄金の茶室の設計を行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、「わび茶」の完成へと向かっていきました。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人としての名声と権威を誇りました。秀吉の政事にも大きく関わり、「公儀のことは豊臣秀長、内々のことは利休に」と言われるまでになりました。ところが1591年に突然、秀吉の逆鱗に触れて堺に蟄居を命じられました。前田利家や、「利休七哲」たちが奔走しましたが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられました。利休の首は一条戻橋で梟首となりました。利休の高弟七人を「利休七哲」と言います。「利休七哲」は、蒲生氏郷(筆頭)、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部)です。これに、織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて「利休十哲」と言われています。

次に、岡本大八事件です。1609年、ポルトガル領のマカオに寄港した有馬晴信の朱印船の水夫が、酒場でポルトガル船マードレ・デ・デウス号の船員と些細な事から口論し、乱闘となって有馬晴信の水夫60名が殺害され、積荷が略奪されるという事件が起こりました。この事件に有馬晴信は激怒し、直ちに徳川家康へ長崎に寄港してくるマードレ・デ・デウス号への報復の許可を願い出ました。家康はこれを放置しておけば、日本の国家権威が甘く見られると判断して即座に有馬晴信に報復するように命じました。そして、マードレ・デ・デウス号を包囲攻撃し、3日後に沈没させました(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)。この時、有馬晴信の報復処置への目付役として同行していたのが、家康の側近・本多正純の与力である岡本大八でした。有馬晴信の報復処置は、岡本大八の報告によって本多正純を通じて家康に伝えられ、有馬晴信を激賞しました。有馬晴信は有名なキリシタン大名で、岡本大八もキリシタンでした。その関係から有馬晴信は岡本大八を饗応しましたが、この時に岡本大八が「旧有馬領であったが、今は鍋島氏の所領となっている藤津・杵島・彼杵三郡を家康が今回の恩賞として有馬晴信に与えようと考えているらしい」と囁きました。有馬晴信は、岡本大八の主君・本多正純は家康の側近中の側近で、家康に働きかけてくれれば旧領の回復は間違いないと思いました。そして有馬晴信は岡本大八に金品を渡すと、本多正純に家康へ働きかける運動資金として金銀を提供しました。しかし、岡本大八は全て自分の懐に入れていました。岡本大八は、有馬晴信に家康の朱印状を偽造して渡し、その見返りとして更なる運動資金の提供を求めました。その結果、有馬晴信は6000両もの金銀をつぎ込みました。岡本大八は、それらを全て懐にしまい込みました。そして、有馬晴信は直接、本多正純に面会すると恩賞を催促しました。本多正純は何も知らず、有馬晴信の訴えを聞くと驚愕しました。直ちに与力の岡本大八を呼びつけて詰問しましたが、岡本大八は知らぬ振りをしました。有馬晴信の嫡男・有馬直純は家康の外曾孫・国姫(松平信康の孫娘)の婿に当たるという経緯から、本多正純は独断で岡本大八を処分する事ができず、家康に申し出て裁決を仰ぎました。家康は驚愕し、駿府町奉行・彦坂光正に事件の経緯を調査させて、岡本大八を逮捕しました。岡本大八は家康の朱印状を偽造して賄賂を受け取ったため、極刑は明らかでした。岡本大八は処刑されるならば有馬晴信も道連れにしようと、途方も無い事を言い出しました。有馬晴信が旧領の回復を策した上に、長崎奉行・長谷川藤広の暗殺を目論んでいたと吹聴しました。長谷川藤広は家康の愛妾・於奈津の兄で、家康のお気に入りの側近の1人でした。これが事実なら、有馬晴信も岡本大八と同じく極刑となります。そして、本多正純と大久保長安の立会の下で、1612年4月18日、大久保長安邸にて岡本大八と有馬晴信の直接対決を命じました。有馬晴信は潔白を主張しましたが、度重なる尋問に及んで遂に長谷川藤広の殺害を企んだと認めてしまいました。こうして、裁決が下されました。岡本大八は家康の朱印状偽造で4月21日、駿府市中を引き回しの上で安倍川の河原で火刑に処されました。有馬晴信は長谷川藤広殺害計画と勝手に旧領回復を策した不届きを咎められて、4月22日に甲斐国郡内に流罪となりました。これにより、有馬晴信の所領・島原藩4万石は改易の上、没収となりました。有馬晴信の嫡男・直純は、父と疎遠である事、家康の外曾孫を娶って家康に近侍していた事などが考慮されて、有馬氏の家督と所領の相続が認められました。甲斐国に流罪となった有馬晴信は、後に切腹を命じられました。1612年6月5日、配所においてキリシタンのために自害を拒み、家臣に首を切り落とさせて、46歳でその人生を終えました。岡本大八が賄賂で有馬晴信から騙し取った金品が6000両という莫大な金額だったため、本多正純が裏で手を引いていたのではないかという風聞が世間で流れました。本多正純は次第に幕閣内で孤立を深めていきました。これが後に、本多正純が「宇都宮城釣天井事件」で改易される遠因となりました。

その次に、元禄赤穂事件:刃傷松の廊下です。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及びました。勅使、院使が江戸城に登城して、将軍・徳川綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという「奉答の儀」が、江戸城本丸御殿白書院にて執り行われる予定になっていました。午前9時過ぎ、江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)で吉良上野介義央と留守居番・梶川頼照が居合わせた所へ突然、浅野長矩が吉良義央に対して背後から小刀にて叫び声をあげながら斬りかかりました。吉良義央は背後から背中を斬られ、「これはなんと」と振り向いたところ、額を2回切りつけられて気を失ってうつ伏せに倒れました。梶川頼照がすぐさま浅野長矩を取り押さえ、居合わせた品川伊氏(豊前守)、畠山義寧(下総守)ら、他の高家衆が吉良義央を蘇鉄の間に運びました。事件後すぐさま勅使饗応役は戸田忠真へと交代となり、「奉答の儀」は白書院から黒書院へと移されました。浅野長矩は、目付・多門重共の取り調べに「遺恨あり」と答えたのみでした。取り調べ結果は大目付・仙石久尚(伯耆守)や、老中・小笠原長重、秋元喬知、土屋政直、稲葉正往へ報告され、幕臣にて評議されました。老中による評議と同時に、事件は側用人・柳沢吉保から将軍・徳川綱吉に言上されました。徳川綱吉は、朝廷との儀式を台無しにされたとして激怒し、浅野長矩の即日切腹と赤穂浅野家の改易を命じました。また、吉良義央に対しては、殿中を憚り手向かいしなかった事が殊勝であるとして咎め無しとしました。浅野長矩は芝愛宕下(現在の東京都港区新橋4丁目)の一関藩主・田村建顕の屋敷にお預けとなり、大目付・庄田安利(下総守)が検使正使、目付・多門重共、大久保忠鎮が検使副使として立会い、座敷ではなく白砂(庭先)にて午後7時40分頃に浅野長矩は切腹し、御徒目付・磯田武太夫によって介錯されました。一関藩・田村家より、浅野長矩の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が世子・浅野長広に伝えられ、片岡高房、礒貝正久、田中貞四郎、中村清右衛門、糟谷勘左衛門、建部喜六らが田村邸へ入り、浅野長矩の遺体を引き取りました。彼らはそのまま泉岳寺へ向かい、浅野長矩の葬儀を執り行いました。ここから、赤穂浪士・47士による吉良邸討ち入り事件が幕を開けました。

その次の次に、第一次世界大戦:レッドバロン戦死です。「レッドバロン」こと、ドイツ陸軍の航空士官マンフレート・フォン・リヒトホーフェンが撃墜されて戦死しました。「第一次世界大戦」で最高の撃墜機記録80機を保持、乗機を赤色に塗装していた事から「レッドバロン」や「赤い悪魔」の異名で呼ばれました。80機撃墜の翌日、英軍機を低空で追撃中にオーストラリア第53砲兵中隊の軽機銃に撃墜されて戦死しました。彼の死後、第一戦闘機大隊の指揮は、後にナチス・ドイツの国家元帥になるヘルマン・ゲーリングに引き継がれました。

最後に、ネッシー事件:ネス湖でネッシーの写真を撮影です。1934年4月の早朝、ロンドンの外科医、ロバート・ケネス・ウィルソンは友人と共に鳥の写真を撮りにネス湖を訪れ、突然湖面に現れた「ネッシー」を、持っていたカメラで撮影しました。この写真はデイリー・メール紙に掲載され、「外科医の写真」と称されて話題を呼びました。首長竜を思わせる長い首がはっきり写されており、長らく「ネッシー」の代表的写真として知られていく事になりました。しかし、1993年11月にクリスチャン・スパーリングが死の間際、この写真がトリックであったと証言しました。首謀者は彼の養父マーマデューク・ウェザラルで彼らは、自ら発見した「ネッシー」の足跡を偽物と判定された意趣返しに、おもちゃの潜水艦に30cmほどの「ネッシー」の首の模型を付けた物を撮影したと言いました。そして、知人であるウィルソンの医師という社会的地位に目をつけ、偽証を依頼したとの事です。エイプリルフールのジョークのつもりでしたが、世界的な話題になった事で引くに引けなくなったとの事です。この告白は翌1994年3月、イギリスのサンデー・テレグラフ紙に掲載されました。

今日の誕生日:中江藤樹、エリザベス2世、須藤豊、輪島功一、トニーニョ・セレーゾ、臼井儀人、君塚良一、保積ぺぺ、畑中葉子、今井雅之、千葉祐子(祐子と弥生)、千葉弥生(祐子と弥生)、辻沢杏子、久宝留理子、西本はるか(元パイレーツ)、安田美沙子、朝日奈央(元アイドリング!!!15号)、高木紗友希(Juice=Juice)、リードホーユー、ニッポーテイオー、エアダブリン、オフサイドトラップ

今日の記念日:ローマの創建記念日、民放の日

今日の「今日訓」:本日は、ローマの建国神話で紀元前753年にロームルスが「ローマ(王政ローマ)」を建設し、王となった日で「ローマの創建記念日」、1951年に日本で初めて民放16社に放送の予備免許が与えられた事で「民放の日」となりました。
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