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2016年04月18日02:04

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子育ての担い手と離婚時の親権者の決定

子育ての担い手と離婚時の親権者の決定
弁護士 岡本 哲

                  
 1966年以降、離婚において乳幼児は母親側が引き取り、親権者となることが原則となったといわれる。社会学者の上野千鶴子先生は理由は不明であるとされている。それ以前は父親、あるいは男の子は父親、女の子は母親ということであった。作家の宮尾登美子(1926年生まれ)は1962年の離婚のときにこどもをのこして家をでている。
 
日本の内地の庶民生活から見れば、戦前の大家族時代とに戦後の核家族時代になり、核家族の影響がはっきりしたのが昭和41年ではなかろうか。


戦前の保育を特徴つけていたのは何だったか?
それは祖母及び家事使用人の役割である。

いまでは解釈しにくくなっている三木露風作詞 赤とんぼをみてみよう。

赤とんぼ
夕焼小焼の赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か

山の畑の桑の実を
小籠に摘んだは幻か

十五で姐やは嫁に行き
お里の便りも絶えはてた

夕焼小焼の赤とんぼ
とまっているよ竿の先


三木露風・作詞、山田耕筰・作曲。初出は、詩が大正1921年だがメロディは1927年。概ね昭和が始まる時代に作られ、戦後1965年にはすでに郷愁として普及していた。描かれているのは昭和前期的な風景である。

さて、この詩の意味はわたしもこどものころは誤解していた。こどもは姉に負われていると思っていた。家事使用人はうちでは母親が出産時のわずかなときしかいなかったのである。筆者は妹出産時には祖父母宅に1−2歳にかけてあずけられていた。
負われているねえやって、負われているこどもとどういう関係なのだろうか?

1・2・3番は関係しているのでねえやが背負っているのであろう。
3番抜きで戦後だと、挿絵的に母親が描かれることもある。若い母親が子どもを背負っているという光景である。

3番になって「姐や」が唐突に出現する、とすれば、1番と2番が分離する。
おさとのたよりは奉公先へおやもとからおくる贈り物である。、これがあるからこどももそうひどい扱いをうけなくなる。
1〜3番は関連すると考えるのが通常であろうから、1番で背負ったのも、2番で桑の実を積むのも子の遊びであることから、家事使用人であるねえやとの思い出であろう。三木露風は素封家のこどもであって家事使用人がいたと考えるほうが自然である。詩を読むような人は素封家等の富裕層であったから、作者;読者ともこう考えるほうが大正から昭和への当時の情勢から相当と思われる。
 桑の実はマルベリーであり、養蚕がさかんな地方でやよく食べられていた。養蚕も1960年代はあまりさかんでなくなった。1980年代の「美味しんぼ」では海原雄山でさえ隠し味につかわれるとウンウン考えてようやくわかるくらいの珍しさになっていた。赤とんぼの光景は日常的なものが赤とんぼしかなくなっていた。

詩人は、家事使用人のねえやにおぶわれて赤とんぼを見た、そのねえやと物心つく頃、桑の実を摘んだ。

昭和前期まで、育児 は少女または老女のシャドーワーク(賃金のもらえない仕事)として担われていた。当時は兄弟姉妹がいることが多く、そのなかの少女は保育を担当していた。おいやめいを背負うこともあった。なお、この他には、現在の中国のように祖父母など老人に預けるということも多く、漱石の「坊っちゃん」』などがその例である。

家が富裕である場合、保育用の少女がその労働にあたっていた。「おしん」の最初の奉公先では、7歳くらいのおしんもこの仕事があてがわれる。そのほかは、大家族であり、少女か老女がもっぱら保育にあたっていた。
 家事使用ヵの子守担当少女は、いわゆる守り子である。『芸者』の著者増田小夜その一人で、回想録である同書は、「ものごころついたとき、私は長野県の塩尻に近い郷原という田舎の、地主の家で子守をしていました」と始まる。こういう描写もある。

寒いのは夜ばかりではありません。子守をしているときは、背中は温かくても足は凍りつくほど冷たいのです。私は、冬どんなに寒くても足袋をはかせてもらえなかったので、片方の足の足の股のところへ、もう一方の足をくっつける、これを繰り返していつも片足で立っていました。それで、仇名は「鶴」といいます。

守り子の労働はきつく、その文化の中で生まれたのが、守子唄である。「竹田の子守唄」としても知られる守子唄からはそうした隷属的な未成年労働の状況が読み取れる。

守りも嫌がる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし

盆が来たとて なにうれしかろ
帷子はなし 帯はなし

この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら

早よも行きたや この在所越えて
むこうに見えるは 親のうち

保育の隷属労働から逃れて、少女は親元に帰りたいというのだが、実際この人身売買をしているのはその親である。

赤とんぼのねえやが嫁に行くもの、大半は「口減らし」であるが、事実上は人身売買に近いものもあったことであろう。

他にも日本の「子守唄」とされているものの大半は、守子唄である。守り子にとっては背中で泣き騒ぐ雇主の子どもは忌まわしい存在でしかなく、守子唄には、赤ん坊への愛情よりも憎悪が歌われている。

つまり、こうした守子唄が常識である時代背景に「赤とんぼ」の歌をおけば、この歌も守子唄の関連であることが理解されやすいだろう。

昭和前期の保育は、守り子の労働が大きな比重を持っていた。大家族で兄弟が多く、また事実上の人身売買が横行していた。こどもをたくさん産んでも活躍できる背景には母親の育児負担が軽いことがあった。

 義務教育が中学までになったこと(義務教育にいかせていないことがわかりやすくなった)や労働法規や児童福祉法などの適用がみたれるようになって、守り子が昭和20年代からは消えていく。
戦後、そして高度成長期になって、大都市が地方の労働者を吸い込み、核家族なるのに並行して、政府も先手を打って少子化を事実上推進した。

かくして子育ての主役は守り子ではなく母となる。この象徴が美智子妃であり、その子、徳仁親王こと「ナルちゃん」である。皇后に付く前の美智子皇太子妃は、保育を自らがママとして行い、それが叶わない場合、世話係に保育指針の育児メモを示していた。これが「ナルちゃん憲法」である。それ以前には皇室には乳母と教育係がいた。
この時代から、保育するママ、という存在が定着し、昭和38年(1963年)の歌謡曲「こんにちは赤ちゃん」が以降、日本の愛唱歌となった。作詞者が永六輔であることもあり、もともとは当初父の心情だったものが、歌手梓みちよに合わせて「私がママよ」となったらしい。
昭和41年には、この文脈で『スポック博士の育児書』が出てベストセラーとなった。
 アメリカでは核家族化は1930年代以降のようである。アメリカの場合中流以上であれば家事使用人が容易にみつかること、ベビーシッターが普及していることから、母親の育児負担は軽い。それでも母親優先というわけではない。

日本では母親が育児の主役になったため1966年以降の乳幼児の親権について離婚時のさいは親権者母優先の原則となったようである。

となると核家族でなく、大家族である場合、家事使用人を確実に確保できる場合については母親優先というのはあてはまらないことになる。





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