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2016年04月11日14:35

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《「日本は自衛の戦争をした」との D・マッカーサーの証言を『東京裁判史観』からの脱却に活かせ。》

《「日本は自衛の戦争をした」との D・マッカーサーの証言を『東京裁判史観』からの脱却に活かせ。》

「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら。」
1951年4月19日。米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官(SCAP・GHQ)として日本を占領統治した陸軍元帥ダグラス・マッカーサーは退任演説をこう締め括った。

マッカーサーは第33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国したばかりだった。人生の黄昏を感じさせる演説だが、心中には闘争心が漲っていた。

マッカーサーは1952年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを完膚なきまでに叩き潰す腹づもりだった。演説でも「私の朝鮮政策だけが勝利を齎す。現政権の政策は長く終わりのない戦争を継続するだけだ」とトルーマンを批判した。

米上院軍事・外交合同委員会はマッカーサーを聴聞会に召喚した。テーマは「極東の軍事情勢とマッカーサーの解任」。背景にはトルーマン政権に打撃を与えようという共和党の策謀があった。

聴聞会初日。証言台に立ったマッカーサーは質問に誠実に応じ、1950年6月に勃発した朝鮮戦争の経緯を淀みなく説明し続けた。

質問者の共和党上院議員、バーク・ヒッケンルーパーは「赤化中共を海と空から封鎖するという元帥の提案は米国が太平洋で日本を相手に勝利を収めた際の戦略と同じではないか」と質した。マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが狙いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった。

「日本は4つの小さい島々に8千万人近い人口を抱えていた事を理解しなければならない。日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、スズが無い、ゴムが無い、他にも無いものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた」

「もし原料供給を断ち切られたら1000万〜1200万人の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られての事だった」

会場がどよめいた。証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛の為に戦争した事になる。これは「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、東京裁判(極東国際軍事裁判)まで正当性を失ってしまう。

もっと言えば、6年8箇月に亘り日本を占領統治し「民主化」と「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領の夢は潰えた。

何故マッカーサーはこのような証言をしたのか? 日本の「自衛戦争」を認めた理由についてマッカーサーは回顧録でも触れていない。だが、マッカーサーが朝鮮戦争でどのような戦略を描いたかを紐解くと答えが見えてくる。

マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中共という共産主義国の脅威を痛感した。朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国のプレゼンスは失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。

ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国が「中ソと徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」と動揺した事もあり、北緯38度線付近で「痛み分け」にする策を練っていた。現場で指揮を執るマッカーサーは北朝鮮を壊滅できる機会を悉くトルーマンに潰された。

マッカーサーにしてみれば勝てる戦を勝ってはいけないとトルーマンに邪魔された訳である。北緯38度線付近での「痛み分け」は既定の路線であった。これは実に不可解な事である。欧州がソ連の報復を恐れたなどとの理由では説明がつかない。

マッカーサーは中共を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。マッカーサーのこの判断は正しかった。併し、これがトルーマンがマッカーサーを解任した理由だったという。

マッカーサーの主張は、その後の歴史を辿っても説得力がある。ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守る為に日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。

「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を支那で増大させた事だ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」。マッカーサーはこうも語った。これは「米国は戦う相手を間違えた。真の敵は日本ではなくソ連や中共だった」と言っているのに等しい。

マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。「自衛戦争」発言は、自らの戦略の優位性を雄弁に語るうちに本音が出たのであろう。

他にもマッカーサーは重要な証言を残した。民主党上院議員、ラッセル・ロングが「連合国軍総司令部(GHQ)は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と称えたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。

「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出す事はない。幾つか例外があるだけだ。交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」

それならば日本の占領統治や東京裁判は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。追及すれば戦勝国の立場が崩れる事を恐れたのであろう。

別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えた。原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を「虐殺」と表現した意義は大きい。日本はマッカーサー証言を上手く活用しきれていない。

聴聞会でのマッカーサー証言は日本の立場を有利にしたが、次の発言で一転して失望を招いたと言われている。
「科学、芸術、神学、文化に於いてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだ我々の45歳に対して12歳の少年のようである」

この発言だけを切り取るのはフェアではない。彼はこの言葉の前後に「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。「日本人の柔軟性」をよい意味で少年に例えたと受け取れなくもない。

日本人は勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を受け容れた。マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」のように柔軟に映ったのではないか。日本人はマッカーサー証言を「馬鹿にされた」と受け取るべきではない。

1964年4月5日、マッカーサーはワシントン近郊のウォルター・リード陸軍病院で84年の生涯を閉じた。元首相、吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。昭和天皇も米大統領宛に弔電を打たれた。葬儀は8日に米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。

マッカーサーの評価は日本でもなお定まらない。ただ、上院聴聞会での証言は日本にとって非常に重要である。日本政府はマッカーサー証言を改めて研究して、今後の日米関係に活かすべきである。未だに日本を蝕む『東京裁判史観』からの脱却に資する事は間違いない貴重な証言である。

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■(参考)老兵・マッカーサーはなぜ「日本は自衛の戦争だった」と証言したのか…
http://www.sankei.com/politics/news/151224/plt1512240001-n1.html
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