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2016年04月11日00:15

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4月11日の日記

今日の出来事:1241年−モヒの戦い、1796年−白蓮教徒の乱、1889年−甲武鉄道・新宿〜立川間(現在の中央本線)が開業、1974年−ガッツ石松が「ガッツポーズ」をする

今日は、モヒの戦いです。モンゴル帝国のジュチ家の当主・バトゥが率いるモンゴル帝国軍と、ハンガリー王ベーラ4世が率いるハンガリー軍との間で行われた戦闘です。モンゴル帝国のヨーロッパ遠征(バトゥの西征)で、バトゥが率いるモンゴル軍はポーランドに侵攻しました。何とかモンゴル帝国の侵攻を食い止めようと、「ポーランド王国」、「神聖ローマ帝国」、「ドイツ騎士団」、「テンプル騎士団」、「聖ヨハネ騎士団」などのヨーロッパ連合軍が立ち塞がりました。しかし、モンゴル帝国軍はこれを撃ち破りました。史上名高い、ヨーロッパを震え上がらせた「ワールシュタットの戦い」です。さらに、モンゴル帝国軍はハンガリーに侵攻しました。バトゥが率いる部隊とスブタイが率いる部隊に分かれており、バトゥ軍はドナウ河まで進むとハンガリー軍と遭遇しました。数で大きく劣るバトゥの部隊は撤退を始めると、これを追ってハンガリー軍は、サヨ川とヘルナッド川の合流地点近くのモヒ平原に入りました。一方、スブタイの率いる部隊はハンガリー軍を包囲するため、バトゥが使った石橋以外のサヨ川の渡河地点を探して南方に進みました。ベーラ4世はモヒ平原に到着すると、素早くモンゴル軍の前衛部隊を撃破し、サヨ川の石橋を奪って東岸に橋頭堡を得ました。そこでベーラ4世は、西岸に主力部隊と強固な防御円陣を築くと野営しました。バトゥが率いるモンゴル帝国軍は、翌朝7台の投石機(カタパルト)を前線に投入し、サヨ川東岸のハンガリー軍の橋頭堡に石弾と矢弾の集中攻撃を行いました。「耳を裂くばかりの爆音と閃光」を伴って行われた射撃と連携して、モンゴル軍は騎馬隊を突撃させたためハンガリー軍は後退し、バトゥは石橋を再び奪取しました。石橋を得たモンゴル軍は、続々とサヨ川を渡って進撃しました。しかし、数に勝るベーラ4世はモンゴル軍をサヨ川に追い詰めようと主力を投入し、激戦が行われました。ハンガリー軍の騎馬隊は何度も突撃を繰り返しましたが、そのたびにモンゴル軍は投石機と弓矢でハンガリー軍を撃退しました。この時、ようやくスブタイが率いる別働隊が戦場に到着し、ハンガリー軍を完全に包囲しました。大軍を動かすにはモヒ平原は狭く、身動きの取れなくなったハンガリー軍はモンゴル軍から浴びせられる大量の石弾と矢弾によって、壊滅的打撃を受けました。スブタイは西方の包囲を解き、意図的にハンガリー軍の逃げ口を作りました。一部のハンガリー軍は、武器や防具を放棄して包囲を脱出しました。しかし、馬を乗り換えたモンゴル軍の軽騎兵に追いつかれ、ほとんどが討ち取られました。ベーラ4世は辛うじてモンゴル軍の追撃を逃れ、ダルマチア沖の孤島に避難しましたが、ハンガリー軍はほとんど壊滅しました。こうして、ハンガリー全域はモンゴルの占領下に入りました。モンゴル帝国軍は、次の目的地ウィーンを目指しました。しかし、翌1242年に大ハーン・オゴデイの死による遠征軍の帰還命令を受けると、モンゴル軍はハンガリーから撤退しました。

次に、白蓮教徒の乱です。清で農民による弥勒信仰結社・白蓮教徒が叛乱を起こしました。清は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3人の皇帝により全盛期を迎え、この時代は「三世の春」と呼ばれました。しかし、その一見華やかな時代の影で徐々に社会矛盾、官僚の腐敗、地方農民の没落などが進行していました。乾隆年間には、それまで勢力を弱めていた「白蓮教」が次々と新教団を作るようになりました。1774年、山東省で八卦の新教団が結成され、首領の王伦が反乱を起こしました。また、四川省でも厳しい取り立てに抗議する反乱が起こり、鎮圧された後に信徒は「白蓮教」に吸収されました。清朝は「白蓮教」の教主・劉松を捕らえて流刑に処し、劉松の高弟・劉之協の逮捕令を出しました。1794年に劉之協は捕らえられましたが、護送中に脱走しました。乾隆帝が劉之協の捕縛を命じて、和珅の兄弟・和琳を「白蓮教」の鎮圧に送り込みました。全土で過酷な取調べが行われ、無関係の民衆多数が犠牲になりました。加えてこれを良い事に官吏たちは捜査の名目で、金銭の収奪などを行いました。1795年、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、和珅が地位を利用して専横を開始しました。これらの事で民衆は不満を募らせ、1796年に湖北省で王聡児・姚之富が率いる「白蓮教団」の指導の元に反乱を起こしました。これを契機として陝西省、四川省でも反乱が起こり、更に河南省、甘粛省にも飛び火しました。白蓮教徒たちは弥勒下生を唱え、死ねば来世にて幸福が訪れるとの考えから命を惜しまずに戦いました。この反乱には白蓮教徒以外にも各地の窮迫農民や塩の密売人なども参加しており、参加した人数は数十万と言われています。それを鎮圧するべき清朝正規軍「八旗」、「緑営」は長い平和により堕落しており、反乱軍に対しての主戦力とはなりませんでした。それに代わったのが、「郷勇」と呼ばれる義勇兵と「団練」と呼ばれる自衛武装集団でした。「白蓮教徒」たちも組織的な行動が無く、各地でバラバラな行動を取っていたため、次第に各個撃破されました。1798年に王聡児、姚之富が自害しました。1799年に乾隆上皇が崩御し、親政を開始した嘉慶帝が和珅を弾劾し、和珅は自殺しました。1800年に劉之協が捕らえられ、1801年には四川の指導者の徐天徳、樊人傑が自害しました。こうして、次第に下火になっていき、1802年には鎮圧されました。

その次に、甲武鉄道・新宿〜立川間(現在の中央本線)が開業です。甲武鉄道は、東京市内の御茶ノ水を起点に飯田町、新宿を経由し、多摩郡を横断して八王子に至る鉄道です。1906年に公布の「鉄道国有法」によって同年10月1日に国有化されて、中央本線の一部となりました。1870年に開業し、2年後に廃止された「玉川上水の船運」の代わりに、その堤防沿いに新宿−羽村に馬車鉄道(甲武馬車鉄道)の敷設を企画した事からはじまりました。1886年に、これを東京市内−八王子の蒸気鉄道に変更して出願し、翌1887年に設立が認められました。以降、1889年4月に新宿−立川、8月には立川−八王子を開業しました。新宿から東京市内への路線延長は甲州街道沿いに計画されましたが、青山練兵場や三崎町の工廠の後押しがあり、1889年5月に申請し、7月に仮免状が下付され、1894年10月に新宿−牛込が、1895年4月に牛込−飯田町が開業しました。これに更なる延長が計画され、1890年に飯田町−万世橋を出願、1900年には当時計画中の「東京縦貫高架鉄道(現在の上野−新橋のJR鉄道路線)」との接続を条件に免許状が下付されました。このうち、1904年12月に御茶ノ水までの延長が完成しました。開業から1891年までは新宿で路線が接続し、創立委員長の奈良原繁が社長を務めた「日本鉄道」が営業管理を行っていました。また、東京市内区間での旅客が増えた事から、1904年8月21日に飯田町−中野間を電化し、日本の普通鉄道では初めて電車運転を行いました。現在の「西武国分寺線」と「西武新宿線」の東村山−本川越である「川越鉄道」、および「青梅線」である「青梅鉄道」は、「甲武鉄道」の支線にあたります。以下が「甲武鉄道」の駅です。御茶ノ水駅、水道橋駅、飯田町駅、牛込駅、市ヶ谷駅、四ツ谷駅、信濃町駅、千駄ケ谷駅、代々木駅、新宿駅、大久保駅、柏木駅、中野駅、荻窪駅、吉祥寺駅、境駅、国分寺駅、立川駅、日野駅、豊田駅、八王子駅

最後に、ガッツ石松が「ガッツポーズ」をするです。1974年4月11日、東京の日大講堂でプロボクサー・ガッツ石松がボクシングWBC世界ライト級チャンピオンのロドルフォ・ゴンザレスと対戦しました。ガッツ石松は8ラウンドKO勝利で王座を奪取しました。この時、ガッツ石松はコーナーポストによじ登り、両手を上に挙げて喜びを表現しました。これをスポーツ報知の記者・柏英樹が「ガッツポーズ」と表現しました。こうして「ガッツポーズ」は、流行語となりました。この事から、4月11日は「ガッツポーズの日」となりました。

今日の誕生日:北条長時(鎌倉幕府第6代執権)、正力松太郎、金子みすゞ、三木のり平、すぎやまこういち、中西太、加山雄三、猪俣公章、ハーリー・レイス、小島太、武田鉄矢(海援隊)、川野太郎、角田信朗、森高千里、KUMI(LOVE PSYCHEDELICO)、琴光喜啓司、カケフくん、玉田圭司、前田健太、真野恵里菜、小笠原茉由(AKB48、元NMB48)、ピンク・パンサー

今日の記念日:メートル法公布記念日、ガッツポーズの日、山村精一(山さん刑事)殉職

今日の「今日訓」:本日は、1921年に日本で改正「度量衡法」が公布され、法律により「メートル法」の使用が定められた事で「メートル法公布記念日」、1974年、ボクシングWBC世界ライト級タイトルマッチで、挑戦者ガッツ石松がチャンピオンのロドルフォ・ゴンザレスにKOで勝利、その時のガッツ石松の姿を新聞記者が「ガッツポーズ」と表現した事から「ガッツポーズの日」となりました。
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