ロッド・スチュワート「息子がゲイでもかまわない」
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米国のロサンゼルスでゲイであることをカミングアウトした息子を60代の父親が射殺する事件があった。
一方で、ロッド・スチュワートは、「もし彼がゲイだとしても、僕はかまわない。彼が幸せである限り」と言ったそうである。僕には息子はいないが、考え方としては、ロッド・スチュワートの方の意見を支持する。
ダイバーシティというと、人種とか性別、信条、出自といったことを思い浮かべるが、性的なマイノリティについても考慮するべき世の中になりつつあるような気がする。
この父親みたいに宗教的な価値観に基づき、同性愛を受け容れられない人は世の中には多いだろうし、とにかく生理的に無理、あまり気持ちよいとは思わないという人はたくさんいると思う。
正直なところ、僕も自分自身の問題としては同性愛はNGである。だが、自分に迷惑をかけられない限りは、他人がどういう趣味・嗜好を持とうが、それはそれで否定するべきではないと思うくらいには寛容になってきたつもりである。
自分の価値観を絶対視するような立場を取る場合、それに相反する他者というのは「邪悪な存在」「否定されるべきもの」ということになる。そうなるとこの父親のように自分の息子であっても、抹消するしかなくなる。世の中の宗教的な対立やテロの根源もたぶん同じである。
自分とは違う他者に対する寛容な心。世の中の人たち全員が、そういう心を共有できれば、たぶん企業内、コミュニティ内、国家内、国際間等々、いろいろなスケールでの争い事の大半は解決するのだろう。
だが、言うは易しで、実際はそんなに簡単なものではない。長年連れ添った夫婦であっても、相手の食べ物の食べ方が気に入らないとか、寝ているときにオナラをするのが我慢できないとか、そういう些細なことで争ったりするのである。
僕は、以前、職場の自席で爪切りで爪を切っていたら、部下の課長(僕と同い年だが、高卒だから僕より職歴は長い)に、執務室では爪を切るのはみっともないと注意されたことがある。もちろん周囲に爪が飛ばないよに注意を払っていたし、執務室内で爪を切るのがどうしてみっともないのかよくわからないから理由を尋ねたのだが、とにかくダメだと取り付く島もない。たぶんそれが彼のモノサシに基づく判断なのだろうし、長年そのように思い込んでいるのだろう。
同性愛に対して全否定する人の話を聞いていると、執務室で爪を切るのがダメだと言っていた課長を思い出してしまう。
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