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2016年03月31日18:21

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世界との接触 言語と感覚

このようなテーマは、解がない。あるのは、現実にみえることとそれに対する問いだけである。
謎めいた問いを、問いとして研ぎ澄ませた状態にする、それがある種のゴールである。

普段生きていて、世界と、分かりやすくいうと日常生活を意識している。
海に行って風景を眺め、太陽が見え、船が見え、冷たい風を感じる。

認知科学の方面から言うと、五感から入った情報が脳で処理される。
処理された結果が、人間の認識である。

ここで、脳、というワンクッションが世界と私の間に入ってくる。
この点において、人は世界と「直接」接触はしていない。

脳で処理されたものは、言語情報に変換される。
この言い方には、とても重大な欠陥がある。
認知科学のしもべになっていると、問題点に気づかない。

世界の認知は、脳が言語情報に変換するのではなく、
言語がすでに存在していて、その言語を基に脳が世界を解釈するのである。
この認識はとても大事である。

日常生活を送っていくうえで、言語によって人間が制限されている、という認識が大事である。
言葉での表現は、組合せ方によって、言語は無限大の可能性を提示するが、それでもなお限界がある。言語という集合のなかでしか、人は生きていない。

考える時、夢を見る時、思い出す時、全部言葉で出てくる。
世界との接触も実の所、そうだ。

目の前にコーヒーの入ったコップがあるとしよう。
認知科学では、視覚で、コップを認知し、脳が処理し、これはコップだ、というステップを踏む。
しかし、この世に、コップ、という単語が存在しなければどうだろう。

目の前に少し太い木の枝が転がっているとする。
ある人はこれを、杖だといい、
ある人はこれを、木刀だといい、
ある人はこれを、たき火の木材と言う。

その物の形状が定まっていない時、人間の認知にずれが生じる。
これがヒントである。
ある言語の範囲内に収まった時、この木の形状からして、杖だという共通認識が生まれる。
共通認識が生まれる為には、言語が先んずあるということである。

自分の持っている言語、それを前提にして、世界を見て、脳が処理をしてこれは何々だ、という認知を人間は行っているということだ。

つまり、この世に、太陽と言う単語が存在しなければ、それがなんであるか表現することは出来ない。脳も処理をすることができない。言葉の存在しないものは、認知による情報処理すら行うことができないということだ。

これが認知科学の欠点であり、限界でもある。

では、単語がないものは、人間は認知できないのか。
否。
認知できないのではなくて、脳で処理して「解釈」できないのである。
つまり、分かることもできなくて、考えることもできない。

これは目の前に広がっている世界にもいえることでもあるし、人間の内面に言えることでもある。
余談だが、内面に関して、初めてこのことに気付いたのがフロイトである。


世界の接触には、脳の処理、解釈、というワンクッションを置いて認識される。
それは言語に縛られた世界である。その世界では、思考が渦巻いている。

では、世界との接触は間接的にしか認知しえないのか。
否。
認知、それだけを切り取ると、確かに認知は間接的にしかできない。
しかし、認知ではなく、実感と言う感覚、それだけは残されている。

解釈しようとすること自体が、言語の自然運動だとしたら、言語そのものを停止させたらどうか。

布団に寝ている。
手足が冷たいが、背中は温かみを感じる。日差しの温かさも感じる。

ここから、
冷たい、
温かい、

その感覚だけに浸る。

しかし、まだこの段階では「冷たい、温かい」という語を使っている。
語を使っている問うことは、知覚から、脳の処理、解釈という過程を経てしまっていて、間接的でしかない。

さらに、語をすてる。
その感覚だけに身をゆだねる。
そうすると、訪れる世界は何だろう。

大体の人は、睡眠でしょう。

まあ、ここを頑張って寝ないでいこう。

あ、また「頑張って」「寝ない」という語を使っている。

改めて、言語に縛られていることを実感しながら、それを捨てていく。

それができたらどうか。

この状態こそが、世界と「直接」接触している、と言える。



ここまで読むとお分かりだろうが、哲学的な問い、世界と直接接触するにはどうしたらいいかという問いを突き詰めていくと、
禅、瞑想、とリンクする。



古代では、神学と哲学は分かれていなくて同じものだった。

いつの間にか、西洋哲学が勝ち、神学、つまりキリスト教はすたれ、同時に、仏教など他の宗教も哲学の下位に於かれた。

哲学はすたれ、認知科学や脳科学が全盛期に入ると、
ほとんどの人が、それが全てだと思い込むようになってしまった。

西洋の学問の鋭さが、宗教をすたれさせ、西洋学問が重要という認識が一般常識になった。



ただ、こうして哲学的な問いを現代で行うと、対等な立場で宗教が現れる。
このような事実を、改めて見る必要があるのではないだろうか。

これが、問いを問いとして炙り出すことである。


ふと、本当に言語を捨て切れて、感覚の世界で生きられたらどんな世界が待っているのかと思う。



世界で、独りだけいる。
ブッタ。ゴータマ、シッダールタである。
「悟りを開いた人」という意味である。


私が見てみたいという世界、

それは悟りを開かなければいけないのかと思うと、遠く感じる。


プチ悟り、みたいのがあればいいな。






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