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2016年03月23日23:24

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フランス語と現代思想とは何か


 3月20日の京大人文研の市田良彦グループによる現代思想シンポジウムには所用で行けなかったが、たとえばマルクスの思想把握の最前線というかヘゲモニーはフランスにあるのが、戦後から昨今にかけてだが、フランス人がフランス語的思索でマルクスをやることの、思想にとっての現実は問われているのだろうか。
 かつて、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で、ドイツ的現実での批判的思想の現実を問うたが、いわば、それの現代フランス版のようなものだ。『フランス・イデオロギー』といってもいいだろう。同名の著作が、フランスの新哲学派のB・アンリ=レヴィにあったが、それとは関係がない。
 現代のフランスの思想が、総体として、あるいはフーコーやデリダ、ドゥールーズ、ラカン、アルチュセール、ランシエールその他が、個々的に、何を、どのように問い、思索しているかではなく、そもそも、フランス語圏で思想することの意味と限界を問う必要がある。パリでのテロに対するフランスの、自身を普遍主義化した反応がそれを分かりやすく提示してくれている。もっと言ってしまえば、フランス語で思想をやる意味だ。言語は、ヨーロッパだけでも横並び的に、英語や仏語、独語、西語、伊語、等々とあるのではなく、それぞれの語が歴史性を帯びており、言語の意味が持つ現実との関係性が全く違うからだ。つまり、ヨーロッパだけでも、英語、仏語、独語その他で思想をやることは、単に違う言語で思想をやるということではなく、現実に対する思想の関係において、まったく異種の思想をやることになり(個々の言語の歴史性から)、それに最も無自覚的なのがフランス語ということだ。ハイデガーは、フランス人も哲学をやる時はドイツ語を使用しているのであり、その時にフランス人が使用するフランス語は、本質的にドイツ語なのだという意味のことを言ったことがあった。これはドイツ人の駄法螺でもドイツ語の言語ナショナリズムでもなく、個々の言語の対現実的意味性と解すべきだろう。これは近代のヘゲモニーがフランスにあり、フランス語が近代のヘゲモニー言語であることに関連する。フランス語はヘゲモニー言語であるゆえフランス語の対現実的意味性を普遍化し、それに対する批判を、逆に自己中心主義と批判する現実を作り出す。しかし、それはフランス語による虚構ではないか。フランス語による思想が作り出す虚構の分かりやすい例として、近代におけるフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』での、ドイツを根源民族とし、ドイツ語を根源言語と述べていることを、自民族中心主義として批判するフランスの論理だ。あそこで批判されるべきはドイツのフィヒテではなく、フランスのナポレオンだろう。このあたりが分かっていないのが、フランスの普遍主義の問題点でもあり、フランス語で思想をやることの限界を突破することをフランス思想やフランス思想研究者は問題としないかぎり、フランス思想のヘゲモニー下にある現代思想には、表向きの装いとは異なり、何の批判性もないだろう。拙著『思想としてのファシズム』(彩流社)の「まえがき」では、それについて戦後フランスの現実の政治性に関連して、その一端を少し書いたが、フランス語による思想は、その意識とはかかわりなく、構造的現実において左翼ならば文化左翼にしかならないからだ。
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