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2016年03月13日16:28

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夢の小料理屋のはなし 96

「ねえ、あなた。去年の暮れにここで二人で飲んだお酒、覚えてる?」
スポーツ新聞を読みながらかき揚げを食べつつ酒を舐めていたら、女将さんが急に切り出した。
「ああ、覚えてる。女将さんから口移しで貰った酒だ!」
「…バカ。そこはどうでも良いのよ。」
ホントに困った人だわね、って感じの、この女将さんの表情が僕は本当に好きだ。
「いや、そこは男としては重要。女房のトリッキーな愛情表現てのは、やっぱり心ときめくもんさ。」
無言でこっちを睨む女将さん。
やばい、これ以上チャカすと本当に怒られる。
そこら辺の微妙な駆け引きが出来るかどうかで、今夜女将さんが背中をこっちに向けて寝るか否かが決まる。
うん、ここいらが引き際だ。
「で、三千盛がどうしたの?」
「あら、覚えてた?あのお酒をね、教えてくれた人が今日ここに来るのよ。」
「へぇ、じゃあ今夜のお酒も?」
「三千盛よ。」
「って事は、やっぱり口移しで…」
「やりません!」
あらら、遮られちゃってやんの。
しょうがない、今日は寂しく手酌で行きますかね。

そんな時に、入口の戸が開く。
「こんにちはー。今日はお世話になります。」
「あら、ようこそいらっしゃいました。さ、どうぞ、お座りになって。」
初めて見るお客さんをカウンターに促す女将さん。
「あなた、こちらが例の三千盛を教えてくださった、月島さんよ。」
「どうも初めまして、月島です。もう、初めてのお店ってどんな顔して来たら良いのか分からなくて…。」
「笑えば良いと思います。こんにちは。」
そう言って、ちょっと微笑んでみたら、笑顔が帰って来た。

初めて会うお客さんとでも、まるで昔からの知り合いのように酒を酌み交わせるのが、この小料理屋のカウンターだ。
それが、女将さんの力量なのだ。
でしゃばらず、かと言って、個性は主張する女将さんのスタイル。
若い頃は、僕もそう言う気働きなんか気が付かなかったな。

「いつもね、僕が行く酒屋に、綺麗な女の人がお酒を買いに来るんで気にはなってたんですよ。まぁ、奥様の事なんですけどね。で、小料理屋やってらっしゃるって言うから、これはもう行かなくちゃ、って話になりまして、で、今日来ちゃったんですよ。」
眼鏡の奥にある優しい目が印象的な人だ。
「やっぱりね、美人女将の居る小料理屋で呑む、なんてのは、まるで男の妄想の世界の話みたいじゃないですか?夢ですよね、男の。そうそうある話じゃ無いでしょ。それをね、毎晩楽しんでる男が居るって言うからどんな男かと思って見に来ました、へへ。」
女将さんのお酌で、月島さんのぐい呑に酒が注がれる。
とぼけて、僕も空のぐい呑を差し出してみたら、「自分で入れましょう」って言う目配せが飛んで来ちゃった。
あーあ、本当に怒らせたか、こりゃ。

あおやぎのお造りを肴に、三千盛が旨い夜である。
それから、どれぐらい馬鹿話に花を咲かせて飲んだだろうか。
随分三人で笑った気がする。
良いねえ、こうして笑って呑む酒は。
思うんだ。
大人になると、こうして大人同士で笑って呑む酒って案外ありそうで無いもんなんだよね。
大事にしたいよね、こう言う時間と、こう言う場所を、さ。

「また来ますね!おやすみなさい!」
千鳥足で神楽坂を下って行く月島さんを外で僕と見送りつつ、暖簾を下げる女将さん。
「あれ?今日はおしまい?」
「たまには良いじゃない?日曜日だし。それに、私だってたまにはカウンターで飲みたいわ。」
ほう!
しれっと、女将さんの腰に手を回してみる。
「じゃ、飲もうか。」
「まだ、残ってたわよ、三千盛。フフフ。お酌してくれる?」
「喜んで。」
「じゃあ、お酌するから口移しで…。」
「それはダメ!ウフフ。」

ま、何にせよ、女将さんも笑ってるし、多分今日は良い夜なのだろう。
明日は朝から雨になりそうな神楽坂の夜空だけど、不思議と心は晴れやかだ。

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