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2016年03月11日18:27

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東日本大震災から5年がたちました。

■津波で亡くなった母、伏せた父 思い受け止めた17歳は
(朝日新聞デジタル - 03月11日 05:19)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3892571

本日、5回めの震災の日を迎えました。
この方はボランティア先の陸前高田市の17歳の方の手記です。
陸前高田市はボランティアで2011年におとずれて瓦礫の撤去をしました。
なぜこの都市を選んだのかといえば、被害者の方がおそらく岩手で一番多かった場所だと調べて知ったからです。宮城は石巻市に、福島は相馬市に行ったのは一冊の本の記録からそれぞれを選んでいきました。
肉体を使ったボランティアは陸前高田市の一日だけです。
差し入れをその他の県にしました。
仕事の合間に休みをとってできたことはたったそれだけです。
でも実際に行って身体を動かすと自分の力ではない何かの力に動かされてがれきの撤去ができました。、
不思議です。
普通なら5時間炎天下の中、力仕事をしたら倒れるかもしれないくらい、体力には自信がないほどのものですが、後ろから力を授かったように働き続けました。
この土地の方はご無事だろうか?
そう思いながら、複雑な気分で後片付けをしていました。
被災地はあちらこちらでなくなっている方々がいるのですから、ゴミひとつ残すことも許されませんし、ましてや排泄などもってのほか。
5時間で一度だけ民家のおトイレを借りただけでした。

持ちものとして現存しているものはとっておいて本部に持ちかえれえります。
その中でアルバムの破片がでてきました。
その写真は結婚式の新郎新婦の写真でした。
その方がたが、ご無事華どうかはわかりません。
ただその写真を私達がみることで忘れないでください私達の幸せな瞬間をという声が聞こえてきたようなきがしました。
2泊3日の強行スケジュールでしたが、友人と家についた時に、3年、いや5年後にもう一度行こう、10年後にも行こうと誓いましたが、5年後に行くことは叶いませんでした。
しかしテレビを見ている限りではあまり復興は進んでいないという感じがします。
ましてや福島の放射能の被害にあわれた方々は帰宅さえかなわない状況です。
果たして10年後が明るいのかも疑問ですが、我々残されたのもは前を観て歩くしかないのです。
今後、どこで震災が起こるかはわかりませんが起こった時にこそ5年前の教訓を活かして対処するように心がけたいと思った5年目の震災の日でした。
亡くなった1万5千余名方々、現在もなお行方知れずの2千余名の方々に追悼を捧げ本日を過ごします。
我々は強く生きていきます。
合掌。

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