表現するということはどういうことでしょうか。
人が表現する、という時、その人の内面があって思いがあって意思がある。
それを外に出すという行為が表現です。
表現するという行為は二つに分けられます。
1つが、他者に伝達する手段としてのもの。
もう一つが、純粋に自分の内面を出すだけのもの。
前者に関しては、たくさんの書籍が出ているし、あまり関心がありません。
後者は何のためにあるのでしょうか。
大抵の場合、表現する時、言葉を使います。
言葉を使って、話して、思いを言葉に乗せます。
ただ、ふさわしい言葉が見つからない時がある。わりとよくあることだと思います。
言葉の表現のプロが、まさに小説家ですが、小説家でも本当に表現しきれているのでしょうか。
表現すること、それは言葉だけではありません。
ノンバーバルなものもたくさんあります。
ジェスチャーであったり、音楽であったり。
私は音楽ができないので、音楽家がうらやましく思います。
言葉にならないものを、音楽という手段で表現する。
例えばショパンの雨だれ、だと、エピソードを知ってから聞くと、なんとなく伝わってくるものがあります。
果たしてショパンは自分の想いを人に伝えるために書いたのか、
それとも純粋に自分の心の吐露として雨だれを弾いたのかは分かりません。
ただ、表現するということが、決して言葉だけではないということは分かります。
物づくりも表現の形態の一つです。
絵画も美術も、プログラムも全部、表現の形態の一つです。
他者からの評価を無視して、生み出された表現。
そこには魂の存在すら感じさせられます。
私は、この文章を書いていること自体が、私の表現でもあります。
では、なんで人は表現するのか。
そんな素朴な問いが浮かんできます。
別に、自分の中に貯めていたり、自分の中だけで満足していてもいいではないか。
けれども、人は表現という行為を取ります。
ここまで書いたことは、タイトルにつけた表現について、ではなくて、
表現という行為について、という内容になってしまっています。
なぜ表現するのか、そう問いかけると、
表現それ自体が、その問いかけを拒むかのように、
姿をくらまします。まるで表現が意思を持っているかのように。意思的拒絶をするかのように。
単純な答えとしては、人には内面があるから、といえます。
でもこれは答えになっていません。内面で自己完結させればすみます。
では、内面がそもそも、自己完結的なふるまいを出来ないから、表現するのでしょうか。
しかしこの文章は論理的ではありません。
裏を取っただけであり、対偶ではないからです。
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表現するということ、それを探ろうとすると内面というのが出てきます。
内面を探ると自我が出てきます。
自我の世界は無限大で謎だらけなので、結局、表現すること、という問いに対する納得した答えは得られないと思います。
誰も読まないであろうmixiに日記を書く。
誰も聞かない鼻歌を歌う。
誰も聞かないなか、1人つぶやく。
1人で音楽を奏でる。
そう、誰の為でもない。
そう、自分の為でもない。
しかし、その行為を止めることは決してない。
人は表現し続ける。
当たり前のことだよ、と思いながら、
なんでだろうと、1人つぶやく。
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