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2016年02月23日16:08

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「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【323】 2016/2/23(火) 人生を豊かにする死と復活」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16382 (写真入り記事)

先日の一日一シャで話題にしましたが、最近平日の朝は、韓国ドラマの「馬医」を見ています。夢中にさせられています。

日本のドラマに夢中になることは滅多にありませんが、心に残るドラマがいくつかありました。

「ジョーカー 許されざる捜査官」「家政婦のミタ」「35歳の高校生」「リーガル・ハイ1・2」「半沢直樹」などです。

これらのドラマに共通する点は、「死と復活」という要素が込められています。

韓国のドラマの多くには、「死と復活」の要素があります。

「馬医」には、何度も何度も「もう終わりだ!?」という「死」の要素が「これでもか!」というほど出て来ます。しかし、その向こう側に、問題が解決するという「復活」があります。

この「死と復活」がドラマを面白くしていると思います。

日本のドラマには、「死」が中途半端であったり、「死」だけで終わってしまうものが案外多くあります。

聖書は神の言葉ですが、実は、世界のベストセラーです。ダントツで桁違いです。

その背景には、世界の宗教の中で一番人口が多いのがキリスト教だからという理由もあるかも知れませんが、私個人だけでも、何十冊も持っています。

日本語の異なった訳の聖書10冊以上、iPhoneやiPadのアプリの聖書、ヘブル語・ギリシャ語・英語・中国語・韓国語訳のなどの聖書。

たくさん持っているのに、本屋に並んでいる新発売の聖書を見ると、ついもう一冊買いたくなります。

そこには、私がキリスト教徒で、牧師であるだけではない理由があると思います。

聖書は、文学書として何度読んでも飽きない面白さがあります。

聖書の主題は「イエス・キリスト」です。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(イエス・キリスト)について証言しているのです。」(ヨハネ5:39)

聖書は「イエス・キリスト」について書かれていますが、さらにその中心は、「イエス・キリストの十字架と復活」です。

ここにすべてが集約されているといっても言い過ぎではありません。

聖書に出て来る「十字架と復活」は、単に、ドラマの「死と復活」の要素だけではなく、神の一人子の本物の「死と復活」です。

聖書は、キリスト教徒でなくても、キリスト教徒になる気がなくても、すべての人が一読すべき本です。

食わず嫌いになったり、偏見で遠ざけてしまうことがないようにしてもらいたいです。

聖書を批判したい人が居るとしたら、聖書を一読した上で論じ合いましょう。

人は、人の話に耳を傾け、その話を受け入れ、考え方を変えることはまずないと思います。

現代の教会の牧師の多くは、人の耳ざわりのいい、受け入れやすい話をしています。

しかし、聖書の言葉の多くは、耳ざわりがよく、受け入れやすい話ではありません。

人は、自分が聞きたいことを、聞きたいように聞くものです。

自分の考え方と似ていて、自分の心が求める内容だと、喜んで聞きますが、それでは、本質的には考え方は変わっていないものです。

宗教は、問題があったり、貧しく、苦しい状況になると、熱心に求められます。しかし、問題が解決し、豊かになり、苦しみがなくなると、途端に熱が冷めます。

教会に来られている人の中でも、そういう波を見ることがあります。

苦しみの中で、神を求め、熱心に求道したのに、問題が解決し、苦しみがなくなると、教会から距離を置いたり、離れて行く人が居ます。

これが悪いと言っているのではありません。それは普通の人だと思います。

しかし、一つ言えることは、その人が変わっていなかったことが明らかになったのです。信仰のメッキがはがれたのです。

聖書を受け入れることは、神を受け入れることです。それは、自分に死ぬことです。

ドラマの「死」を見ることは、他人事です。しかし、聖書を受け入れ、神を受け入れ、神を体験することは、自分に死に、新しく生まれ変わることです。つまり、「死と復活」を体験することです。

聖書の「死と復活」を体験することは、信仰の筋金が入ることです。

しかし、信仰の筋金は、入っているようで入り切っていなかったり、入ったつもりであることがあります。

それがわかるのは、苦しい時の神頼みをしたのに、問題が解決したら神から離れてしまう時です。

神を熱心に求めていた人が、熱が冷める理由は、神より大切なものができた時です。

イエス様は、「あなたの宝のあるところに、あなたのこころがあるからです。」(マタイ6:21)と語りました。

今日、あなたの宝があるところに心があるのです。

あなたの宝は神でしょうか?

金でしょうか?
地位や名誉でしょうか?
恋人でしょうか?

ある外国の著名人が、「日本には八百万の神々がいると聞いて調べたけれど、それは間違いだ。日本人の神は金だ。日本人はお金教の信徒だ!」と言いました。

私も同感です。

もちろん、地位や名誉教、恋人教の信者も居ますが、お金はそれだけ強く人の宝になっています。

人は、その人が宝としているものによって振り回されます。

もし、神以外を宝としているなら、移り変わり行くものによって振り回されますので、安定のない人生を生きることになります。

神を宝として生きていきならば、神と共に「死と復活」を体験し、豊かな人生を生きることが出来ます。

「死と復活」の要素があるドラマは、誰が見ても心揺さぶられ、疲れますが、感動し、楽しいものです。

しかし、ドラマを見るだけではなく、自分の人生において「死と復活」を体験しませんか?

そして、これは一回だけではなく、点が線になるように、繰り返し体験していきませんか?

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

私は、「死と復活」のドラマを楽しむだけではなく、毎日「死と復活」を体験しています。

死はつらく、悲しく、絶望のどん底に突き落とされますが、死に切った後に、神によって復活を体験させてもらっています。

だから、私の人生は豊かです。飽きることがありません。退屈知らずです。

どうぞ、毎日、「死と復活」を体験しながら歩んでいきましょう。
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